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  清寧天皇 顕宗天皇 仁賢天皇 武烈天皇

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西暦年 天皇 天皇年 干支 月 日 出  来  事
          吉備稚姫にそそのかされ星川皇子謀反。
          大蔵に立て籠もるも大蔵ごと焼きころされる。
480 清寧 1 庚申    
        1月15日 即位。大伴室屋大連・平群真鳥大臣再任
        10月9日 雄略天皇を丹比高鷲原陵(タジヒノタカワシノハラノミササギ)に葬る。
481 清寧 2 辛酉    
        2月 大伴室屋大連を遣わして、白髪部舎人(シラカベノトネリ)・白髪部膳夫(シラカベノカシワデ)・白髪部靭負(シラカベノユゲイ)を置く
        11月 大嘗祭の供物を調える為、伊予来目部小楯(イヨノクメベノオタテ)が播磨国の忍海部造細目(オシヌベノミヤツコホソメ)の宴席で、市辺押磐皇子の子億計・弘計を見つける。
          天皇は喜ばれ、小楯に側近の舎人を付けて迎えに行かす。
482 清寧 3 壬戌    
        1月1日 億計・弘計、摂津国に到着。宮中に迎え入れる。
        4月7日 億計王を皇太子に弘計王を皇子とする。
        9月2日 臣・連を遣わして民の風俗を巡察させる。
        10月4日 「犬・馬など生き物の玩具物(モテアソビモノ)を献上してはならない」と詔。
        11月18日 大宴会を催し、綿・帛を賜る。
        11月 海外の諸藩が貢物を奉る。
483 清寧 4 癸亥    
        1月7日 海外の使者を集め宴会を催す。
        閏5月 大宴会を5日に渡って催す。
        8月7日 親しく囚徒を訪われた。蝦夷・隼人も着き従う。
        9月1日 弓殿において百寮と海外の使者に弓を射させる。
484 清寧 5 甲子    
        1月16日 崩御
          億計皇太子・弘計皇子が行為を譲り合われたので、仮に姉の飯豊青皇女(イイドヨアオノヒメミコ)が朝政を見る
        11月9日 河内の坂戸原陵(サカトノハラノミササギ)に葬る
          飯豊青皇女、崩御
          葛城の埴口丘陵(ハニクチノオカノミササギ)に葬る。
        12月 億計皇太子が弘計皇子に天下を譲られるが、弘計皇子は固辞
485 顕宗 1 乙丑    
        1月1日 大臣・大連の説得で弘計皇子が即位する
          難波小野王(ナニワノオノノミコ)を皇后とする。
        2月 蚊屋野に仲子と押磐皇子の陵を造る。
        3月3日 曲水の宴を開く
        4月11日 来目部小楯の功を称え、山守の役を与え姓を山守連とし、吉備臣を副官として山守部(ヤマモリノベ)を部民とした。
        5月 狭々城山君韓袋宿禰(ササキノヤマノキミカラフクロノスクネ)は陰謀に加わり、押磐皇子の殺害に加担したので誅されることになったが、その姿が哀れなため陵戸(ハカモリ)に落とし官籍を削って山守連の下に付ける。
          一族の倭袋宿禰は妹置目の功により救われて、狭々城山君を賜る。
        6月 避暑殿(スズミドノ)においでになって奏楽をきく
486 顕宗 2 丙寅    
        3月6日 苑(ミソノ)においでになり曲水の宴を催された。
        8月1日 億計皇太子に「敵を討つことは孝行になるか」と問われた。皇太子は良くないと諌められた。
        9月 置目が引退したいと申し出、引退する。
        10月6日 群臣と宴を催された。世の中は平和であった。
487 顕宗 3 丁卯    
        2月1日 阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)が命を受け任那に使いする。
          月の神が人に憑いて田地を奉れば慶福が得られると言われた。事代は京に帰って詳しく報告する。
          山城国葛野郡の歌荒樔田(ウタアラスダ)を奉り、押見宿禰(オシミノスクネ)がそこにお祠りして仕えた。
        3月3日 苑にお出ましになり曲水の宴を催された。
        4月5日 日の神が現れて事代に「倭の磐余の田を高皇産霊に奉れ」と。事代は奏上し、田十四町を奉り、対馬の下県値がお祀りして仕えた
        4月13日 福草部(サキクサベ)を置かれた
        4月25日 崩御
          この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)が任那から高麗へ通い三韓の王たらんとした。
          任那の佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタコウハイ)らが計を用い百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林城に殺した。
          帯山城(シトロモロノサシ)を築いて東道(ヤマトジ)を守り食料を運ぶ港を押さえて、軍を植えさせた。
          百済王は大いに怒り、古爾解(コニゲ)・内藤莫古解(ナイトウマクコゲ)を遣わし、兵を率いて帯山を攻めさせた。
          生磐宿禰は迎え撃つが、最初は撃退したが暫くして力付き失敗を悟って任那から帰った。
          百済は佐魯・那奇他甲背ら300人を殺す。
488 仁賢 1 戊辰    
        1月5日 即位
        2月2日 春日大郎皇女(カスガノオオイラツノヒメミコ)を皇后とされた。
          泊瀬の列城(ナミキ)に都を造る。
        10月3日 弘計天皇を傍丘磐杯丘陵(カタオカノイワツキノオカノミササギ)に葬る
489 仁賢 2 己巳    
        9月 難波小野皇后(ナニワノオノノキサキ)は天皇が皇太子自体に無礼であったので恐れて自殺された。
490 仁賢 3 庚午    
        2月1日 石上部の舎人を置いた。
491 仁賢 4 辛未    
        5月 的臣鹿嶋(イクハノオミカシマ)と穂瓮君は罪を犯したので獄に下され死亡した。
492 仁賢 5 壬申    
        2月5日 広く国郡に散り逃げていた佐伯部を探させ、押磐皇子に仕えた佐伯部仲子の子孫を佐伯造とされた。
493 仁賢 6 癸酉    
        9月4日 日鷹吉士(ヒタカノキシ)を遣わして高麗に送り、巧手者(テヒト)を召された。
          日鷹吉士は高麗から帰って、工匠須流枳(テヒトスルキ)・奴流枳らを奉った
494 仁賢 7 甲戌    
        1月3日 立太子。小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセノワカサザキノミコト)を皇太子とした。
495 仁賢 8 乙亥    
        10月 人民は豊作で天下は平穏であると言った。
496 仁賢 9 丙子    
497 仁賢 10 丁丑    
498 仁賢 11 戊寅    
        8月8日 崩御
          平群真鳥臣が国政を専断する。
          真鳥臣の子、鮪(シビ)が太子に無礼を働く
          真鳥臣父子の無礼に怒られた太子は、大伴金村連の家に行き兵を集めて計画し、数戦の兵で鮪を奈良山で殺害する。
        11月5日 埴生坂本陵(ハニュウサカモトノミササギニ)に葬る。
        11月11日 大伴金村連は太子に真鳥を討つことを勧める。
          太子は大伴金村連を信頼し、計画を相談し真鳥を討つ
        12月 大伴金村連は賊を平定し政を大使に返す。
          泊瀬の列城で即位
499 武烈 1 己卯    
        3月2日 春日郎子(カスガノイラツコ)を皇后とする。
500 武烈 2 庚辰    
        9月 妊婦の腹を割いてその胎児を見る。
501 武烈 3 辛巳    
        10月 人の生爪をはいで山芋を掘らせる。
        11月 大伴金村連に命じて信濃国の壮丁を集めて、大和の水派村(ミマタ)に造れと
          百済の意多郎王(オタラオウ)が亡くなる。高田の岡の上に葬る。
502 武烈 4 壬午    
        4月 人の頭の髪を抜いて木の頂に登らせ、その木を切り倒して登った者を落として殺して面白がった。
          百済の末多王が暴虐を行う。国人は王を捨て、嶋王(武寧王)を立てた
503 武烈 5 癸未    
        6月 二兎を池の堤の桶の中に入らせて外に流れ出るのを三つ刃の矛でさして喜ぶ。
504 武烈 6 甲申    
        9月1日 跡継ぎがいないので、自分の知性を伝え忘れないようにせよと詔する。
        10月 百済国が麻那王(マナキシ)を遣わして調を奉る。長らく調が無かったので王を留め置き返さず。
505 武烈 7 乙酉    
        2月 人を木に登らせて弓で射て笑う。
        4月 百済王が斯我君(シガキシ)を遣わして調を奉る。麻那王の変わりに天皇に遣える。
506 武烈 8 丙戌    
        3月 女たちを裸にして平板の上に座らせ馬を面前で交尾させ陰部が潤った者は殺し潤わなかったものは官婢とした。これが楽しみであった。
          勝手気ままを行い贅沢を欲しいままとし、民の苦痛を忘れた。
        12月8日 崩御

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