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  継体天皇 安閑天皇 宣化天皇

西暦年 天皇 天皇年 干支 月 日 出  来  事
        12月21日 大伴連金村が倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)を迎える事を提案し、迎えを送る。
          倭彦王は自分を捕らえるために来た兵と勘違いし逃げ出し行方不明になる。
507 継体 1 丁亥    
        1月4日 大伴連金村は男大迹王(オオドオウ)を迎えに行く事を提案。
        1月6日 臣・連らが三国に迎えに行った。すぐには承知しなかった。
          河内馬飼首荒籠(カワチノウマカイオビトアラコ)の使いがきて、大臣・大連の本音を説明する。
          検討の結果、河内に向けて出立する。
        1月12日 河内国交野郡葛葉(カワチノクニカタノゴオリクズハ)の宮に到着
        2月4日 大伴連金村は天子の御印の鏡・剣を奉る。数度辞退した後に天子の御印を受けられた。
          大伴連金村を大連とし、許勢男人大臣を大臣とし、物部麁鹿火大連を大連とし、その他旧例の職位のままにされた。
        2月10日 大伴連金村が手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后とするよう勧める。
        3月1日 手白香皇女を迎え入れる事を詔す。
        3月5日 手白香皇女を皇后とする
        3月9日 農桑を盛んにせよと詔をする。
        3月14日 8人の后を召し入れる。
508 継体 2 戊子    
        10月3日 武烈天皇を傍丘磐杯丘陵(カタオカノイワツキノオカノミササギ)に葬る。
        12月 耽羅人が始めて百済に使いを送る。
509 継体 3 己丑    
        2月 使いを百済に遣わす。
          任那の日本の村々に住む百済人逃亡者を百済に送り返す。
510 継体 4 庚寅    
511 継体 5 辛卯    
512 継体 6 壬辰    
        4月6日 穂積臣押山(ホヅミノオミオシヤマ)を百済へ遣わす。
        12月 百済が使いを送り調を奉る。この時、上多利(オコシタリ)・下多利(アロシタリ)・婆陀(サダ)・牟婁(ムロ)の四県を欲しいと願う。
          穂積臣押山および大伴大連金村が賛同し、物部麁鹿火大連を使者として詔を伝える事に決まる。
          物部麁鹿火大連は妻に諌められて病と称して死者の役目を辞退する。別の者が使者に立ち四件の割譲が伝えられる。
          大兄皇子が割譲の事を知り改める令を出したが、百済の使者は無効として扱う。
          穂積臣押山および大伴大連金村は賄賂を貰っているといううわさが流れる。
513 継体 7 癸巳    
        6月 百済は姐弥文貴将軍(サミモンイショウグン)・州利即爾将軍(ツリソニショウグン)を遣わして、穂積臣押山に副えて語経博士段楊爾(ダンヨウニ)を奉った。
          同時に己汶の領土が伴跛国(ハヘノクニ)に奪われたので取り戻して欲しいと願い出る。
        8月26日 百済の太子淳陀(ジュンダ)が亡くなる
        9月 勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)は春日山田皇女を迎える。
        11月5日 百済の姐弥文貴将軍が新羅の汶徳至(モントクチ)・安羅の辛己奚(シンイケイ)と賁巴委佐(ホンハワサ)・伴跛の既殿奚(コデンケイ)と竹汶至(チクモンチ)をつれてくる。
          詔を賜って、己汶・滞沙を百済国に賜る。
          伴跛国がシウキを遣わして、珍宝を献上し己汶の地を乞うが賜らず。
        12月8日 皇太子に対する詔あり。
514 継体 8 甲午    
        1月 太子の妃が子供が居ない事を悲しむ。それを聞いた天皇が佐保の屯倉を設けられる。
        3月 伴跛国は日本戸の戦いに備えつつ新羅を攻撃し暴虐の限りを尽くす。
515 継体 9 乙未    
        2月4日 百済の使者姐弥文貴将軍らが帰国を希望する。
          物部至至連(モノノベノチチノムラジ)を副えて遣わされる。
          伴跛国が暴虐の限りを尽くしていると聞き、滞沙江に入り、文貴将軍は新羅から百済に帰った。
        4月 物部連は滞沙江に留まる事6日、伴跛が軍を攻めてきて散々に破れ、汶慕羅島に命からがら逃げる。
516 継体 10 丙申    
        5月 百済は前部木??不麻甲背(ゼンホモクラフマコウハイ)を遣わして、物部連らを己汶に迎えてねぎらい引き連れて国に入った。
        9月 百済は州利即次将軍(ツリソシショウグン)を遣わし、物部連を従わせて来朝し己汶を賜った事を感謝した。
          五経博士漢高安茂(アヤノコウアンモ)を奉って、段楊爾と替えたいと願い出て許される。
        14日 百済は灼莫古将軍(ヤクマクコショウグン)・日本人の科野阿比多(シナノアヒタ)を遣わし、高麗の使い安定らに付き添わせて来朝す。
517 継体 11 丁酉    
518 継体 12 戊戌    
        3月9日 都を山城国乙訓に遷した
519 継体 13 己亥    
520 継体 14 庚子    
521 継体 15 辛丑    
522 継体 16 壬寅    
523 継体 17 癸卯    
        5月 百済の武寧王が亡くなる
524 継体 18 甲辰    
        1月 百済の太子明が即位して聖明王となる。
525 継体 19 乙巳    
526 継体 20 丙午    
        9月13日 都を大和の磐余の玉穂に遷した。
527 継体 21 丁未    
           
        6月3日 近江の毛野臣が兵6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(アリヒシノカラ)・トクコトンを回復し任那にあわせようとした。
          新羅が磐井に賄賂を送り毛野臣を妨害するよう進める。
          磐井が肥前・肥後・豊前・豊後をおさえる。また、海路も押さえ貢物を略奪する。
          毛野臣の軍を阻む
          誰を叛乱の鎮圧に向かわせるかの御下問があり物部麁鹿火が候補に挙がる。
        8月1日 物部麁鹿火に鎮圧の詔が下る。
528 継体 22 戊申    
        11月1日 物部麁鹿火と磐井が筑紫の三井郡で交戦、磐井を切り鎮圧
          磐井の子の筑紫君葛子(ツクシノキミクズコ)は糟屋(カスヤ)の屯倉を献上し許されることを願う。
529 継体 23 己酉    
        3月 百済王が穂積押山臣に朝貢で風雨に苦しむので加羅の国の多沙津(タサツ)を遣いたいと言った。押山臣は伝送した。
          百済に多沙津を賜ろうとしたが、加羅が抗議し取りやめになる。が、後に百済に賜り、加羅が日本に恨みを抱く。
          加羅王は新羅王の娘を娶ったが、そのときの御付の女達が新羅の衣冠を何時までも付けたままなので、加羅の風俗を無視したとして怒り、御付の者たちを送り返す
          新羅は王女を召還しようとしたが加羅王が拒否したため刀伽(トカ)・古跛(コヘ)・布那牟羅(フナムラ)の三つの城を取り北の境の五つの城を取った。
          近江の毛野臣を安羅に遣わす。新羅に南加羅(アリヒシノカラ)・トクコトンを再建するよう進めた。
          百済、新羅が使いを派遣したが、百済の使いの将軍は謀議の最中いつも庭に控えさせられたので恨んだ。
        4月7日 任那王の己能末多干岐(コノマタカンキ)が来朝した。新羅に度々侵されるので助けて欲しいと願い出る。
          使いを遣わし、己能末多干岐を任那に送らせた。毛野臣に新羅と任那を和解させるよう指示した。
          百済と新羅の王を呼びつけたが、使いを遣わすのみで王自身は来なかった。毛野臣は怒って王自身が来ても詔を伝えないと告げた。
          新羅は改めて上臣(マカリダロ)を派遣したが、多々羅の原に宿ったまま礼を尽くしてくる事をしなかった。
          3ヶ月の間新羅の上臣は待ち続けたが詔を聞くことが出来なかった。このため四つの村を掠め取り国に帰った。
        9月 巨勢男人大臣が死んだ。
530 継体 24 庚戌    
        2月1日 「驕らないよう」詔す
        9月 任那の使者が「毛野臣が政務を怠り、争いが絶えない」と奏上。毛野臣を呼び戻そうとしたが、帰ってこなかった。
          任那王は毛野臣の行状を知って離反し、百済・新羅に頼んで毛野臣を攻めた。
          2国は1月かかっても攻め落とせなかったので、城を築き引き上げた。帰りの道すがら5つの城を奪った。
        10月 調吉士が任那より到着し毛野臣の行状を伝えた。
          毛野臣は召還されたが対馬に至った時、病で死ぬ
531 継体 25 辛亥    
        2月 病が重くなる
        2月7日 崩御。安閑天皇即位
        12月5日 藍野陵(アイノミササギ)に葬る。
532 継体 26 壬子    
533 継体 27 癸丑    
534 安閑 1 甲寅    
        1月 都を倭の国の勾の金橋に遷す。
        3月6日 春日山田皇女を皇后とした。別に3人の妃を立てる。
        4月1日 内膳卿膳臣大麻呂(膳のツカサノキミカシワデノオミオオマロ)が勅命を受けて夷隅に真珠を求める。夷隅国造らはなかなか献上しなかった。夷隅を責めると後宮の寝殿に逃げ込んだ。寝殿乱入の罪を詫びる為に夷隅の屯倉を献上した。夷隅の屯倉を設ける
        7月1日 皇后の為に良田を探した。大河内値味張(オオシコウチノアタイアジハリ)に田を差し出すよう命じたが、良田では無いと言い差し出さなかった。
        10月15日 他の妃のために名を残すものを造りたいと大伴大連金村に告げる。大伴大連金村は屯倉の地を立てる琴を進言する。
        閏12月4日 三島に御幸する。良田を県主の飯粒(イイボ)に問われた。飯粒は感激し40町の土地を献上した。
          味張に叱責の詔を出し郡司の役に預かる事を禁止
          飯粒は詔を受けた事に感激し、自分の子を金村の従者にする。
          大河内味張は詫びて許しを乞う
          廬城部連枳莒喩の女幡媛(ハタヒメ)が物部大連尾輿の珠の首飾りを盗み皇后に奉る。
          事が露見すると枳莒喩は娘を宮中の釆女の召使女として献上し、安芸国過戸(アマルベ)の廬城部屯倉を献上
          物部大連尾輿は事件が自分に関わり合う事を恐れ、大和国十市部などを献上した。
          武蔵国で笠原値使主(カサハラノアタイオミ)と同族の小杵(オキ)が国造の地位を争い長年決着が付かなかった。
          小杵が上毛野小熊に助力を求め殺層としたので、使主は京に逃げて訴えた。
          朝廷は使主を国造とし、小杵を誅した
535 安閑 2 乙卯    
        1月5日 5日間盛大な宴を催すことを詔。
        4月1日 勾舎人部・勾靫部を設ける
        5月9日 筑紫の穂波の屯倉等を設ける。
        8月1日 国々に犬養部を置く
        9月3日 桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに屯倉の税をつかさどらせる。
        9月13日 牛を難波の大隈島と姫島の松原の間に放ってなを残すと詔
        12月7日 崩御。宣化天皇即位。
          古市高屋丘陵(フルイチノタカヤノオカノミササギ)に葬る。皇后と神前皇女も合葬した。
536 宣化 1 丙辰    
        1月 都を桧隈の廬入野(イオリノ)に遷す
        2月1日 大伴金村大連を大連に物部麁鹿火大連を大連に蘇我稲目宿禰を大臣に阿倍大麻呂を大夫(マエツキミ)とした。
        3月1日 皇后を立てるよう役人が要望
        3月8日 橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ)を皇后とする。
        5月1日 非常時の為にもみを蓄えるよう詔する。
        7月 物部麁鹿火大連が死ぬ
537 宣化 2 丁巳    
        10月1日 新羅が任那に害を与えるので、大伴金村大連に命じて、その子磐(イワ)と狭手彦(サテヒコ)を遣わして任那を助けさせた。
          磐は筑紫に留まり、狭手彦は渡って任那を鎮めまた百済を救う。
538 宣化 3 戊午    
539 宣化 4 己未    
        2月10日 崩御
        11月17日 倭国の身狭桃花鳥坂上陵(ムサノツキサカノウエノミササギ)に葬る。皇后とその孺子を合葬した。

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