記紀年表(暫定)
神武天皇 綏靖・安寧・懿徳天皇 孝昭 ・孝安天皇 孝霊・孝元天皇 開化 ・崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇| 西暦年 | 天皇 | 天皇年 | 干支 | 月 日 | 出 来 事 |
| 12月5日 | 欽明天皇即位。大伴金村大連を大連に物部麁鹿火大連を大連に蘇我稲目宿禰を大臣に再任 | ||||
| 540 | 欽明 | 1 | 庚申 | ||
| 1月15日 | 石姫を皇后とする。 | ||||
| 2月 | 百済人己知部(コチフ)が帰化。倭国の添上郡山村(ソウノカミノコオリノヤマムラ)に住まわす。 | ||||
| 3月 | 蝦夷・隼人が仲間を伴って帰順 | ||||
| 7月14日 | 都を倭国の磯城郡(シキノコオリ)の磯城島(シキシマ)に遷す。(磯城島金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)) | ||||
| 8月 | 高麗・百済・新羅・任那が使いを遣わし貢物を奉る | ||||
| 秦人・漢人ら近くの国から帰化してくる人を集め、各地の国郡に配置して戸籍に入れた。 | |||||
| 秦人の戸数は全部で7053戸で、大蔵掾(オオクラノフヒト)を秦伴造(ハタノトモノミヤツコ)とされた。 | |||||
| 9月5日 | 難波祝津宮(ナニワノハフリツノミヤ)においでになる。 | ||||
| 「どれほどの軍勢が有れば新羅を討てるが」を御下問 | |||||
| 百済への四県割譲により恨みを抱いているので軽々しく討ってはならないと物部麁鹿火大連が奏上 | |||||
| 大伴金村大連はこの事の為に住之江の家にこもるが、天皇は金村を手厚く待遇された。 | |||||
| 541 | 欽明 | 2 | 辛酉 | ||
| 3月 | 5人の妃を入れられた。 | ||||
| 4月 | 安羅・加羅・多羅・任那の日本府の吉備臣が百済に言って詔書をうける。 | ||||
| 百済の聖明王が天皇の意思は任那の再興なのでどうすれば良いか皆で検討しようと言う。 | |||||
| 7月 | 百済は安羅の日本府が新羅に通じていると知り、使いを遣わし任那の執事を召して任那の再建を図らせた。同時に日本府の河内値が新羅に通じた事を深く責め罵った。 | ||||
| 7月 | 百済が紀臣奈率弥麻沙(キノオミナソツミマサ)ら使いを遣わし、下韓(アルシカラクニ)や任那の事を報告する。 | ||||
| 542 | 欽明 | 3 | 壬戌 | ||
| 543 | 欽明 | 4 | 癸亥 | ||
| 4月 | 百済の紀臣奈率弥麻沙(キノオミナソツミマサ)らが帰国する。 | ||||
| 9月 | 百済の聖明王は使いを遣わし扶南の財物と奴二人を奉った。 | ||||
| 11月8日 | 津守連(ツモリノムラジ)を遣わして、任那の再建を督促 | ||||
| 12月 | 百済の聖明王は任那再建の督促の詔を群臣に示していかににすべきかを問う | ||||
| 任那の執事や国々の王の意見を聞くべき、また河内値が安羅の日本府にいるなら再建が難しいので帰国を願うべきと答える。 | |||||
| 任那の執事と日本府の執事を呼ぶと、「正月が過ぎてから」の返答を受ける | |||||
| 544 | 欽明 | 5 | 甲子 | ||
| 1月 | 百済は使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を呼んだが、「神祀りの時なので、終わればいく」と返答する。 | ||||
| 再度、百済は使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を呼んだが、身分の低い者をよこし執事は来なかった。任那再興を図る事が出来なかった。 | |||||
| 2月 | 百済は任那へ使いを遣わす。日本府と任那の王に「3月10日に天皇に使いを送るので、協力しないなら詰問されるであろう」と語る。 | ||||
| 河内値に対して「汝が任那を損なう元凶である。国に帰してもらうように天皇にお願いする」と告げた。 | |||||
| 日本府が答えて「汝は勅を承るまで動くな、新羅・百済には勝手に行くなと言われた」また、「百済に集まり勅を承るとは聞いていなかったので行かなかったのは任那の意思ではない」と。 | |||||
| 任那の王は「行こうとしたが、任那の卿が許さないのでいけなかった。聖明王の任那を再建されようと言う心遣いを知ってうれしく思う」と答える | |||||
| 3月 | 百済は使いを遣わして、「安羅日本府の官人が妨害して、任那復興が出来ない。安羅日本府の官人を交代してほしい」と上奏 | ||||
| 10月 | 百済の使人奈率得文・奈率奇麻らが帰国 | ||||
| 11月 | 百済は使いを遣わし、日本府の臣と任那の執事を呼び天皇の詔を聞かせる。 | ||||
| 12月 | 越の国から佐渡島に来たミシハセの人々に関する報告があり。 | ||||
| 545 | 欽明 | 6 | 乙丑 | ||
| 3月 | 膳臣巴提便(カシワデノオミハスヒ)を百済に使わす。 | ||||
| 5月 | 百済が使いを遣わして上表する。 | ||||
| 9月 | 百済は中部護徳菩提(チュウホウゴトクボダイ)らを任那に遣わす | ||||
| 11月 | 膳臣巴提便帰国。百済でのトラ退治の話をする。 | ||||
| この年、高麗で大乱が有った。 | |||||
| 546 | 欽明 | 7 | 丙寅 | ||
| 1月3日 | 百済の使いが帰国の途に付く | ||||
| 6月12日 | 百済が使いを遣わして貢物を奉る。 | ||||
| 7月 | 大和の今来郡(イマキコオリ)から不思議な良馬の報告が有る。 | ||||
| この年、高麗で大乱が有った。戦死者は2千人余 | |||||
| 547 | 欽明 | 8 | 丁卯 | ||
| 4月 | 百済が使いを遣わして日本に援軍を乞う | ||||
| 548 | 欽明 | 9 | 戊辰 | ||
| 1月3日 | 百済の使いが帰国を願い出る。要請の有った援軍を送る旨伝える。 | ||||
| 4月3日 | 百済が使いを遣わして上表す。上表には「安羅と日本府が高句麗に百済侵攻を勧めた」とあった。 | ||||
| 天皇は任那と共に防衛せよとつげ、日本府が使いを送ったと信ずべきでないと伝える。また、援軍を遣わすと告げる。 | |||||
| 6月2日 | 百済に使いを遣わして状況を確認する。 | ||||
| 閏7月12日 | 百済の使いが帰国の途に付く | ||||
| 10月 | 370人を百済に遣わし、得爾辛(トクニシ)に城を作るのを手伝わせた。 | ||||
| 549 | 欽明 | 10 | 己巳 | ||
| 6月7日 | 百済の使いが帰国を願い出る。高麗に使いを遣わしたことに着いては虚実を正す使いを遣わすと伝えた。 | ||||
| 550 | 欽明 | 11 | 庚午 | ||
| 2月10日 | 百済に使いをつかわすして、激賞す | ||||
| 4月1日 | 百済から日本の使いが帰るとき、勅を守る旨と高麗の奴6口と別の奴一口を贈った | ||||
| 4月16日 | 百済は使いを遣わして高麗の捕虜10口を奉った。 | ||||
| 551 | 欽明 | 12 | 辛未 | ||
| 3月 | 麦種1千石を百済王に賜った | ||||
| この年任那と新羅と共同して高麗を破り漢城を回復。 | |||||
| 552 | 欽明 | 13 | 壬申 | ||
| 4月 | 箭田珠勝大兄皇子(ヤタノタマカツオオエノミコ)が薨去 | ||||
| 5月8日 | 百済・加羅・安羅は使いを遣わして、高麗と新羅が共謀して臣の国と任那を滅ぼそうとしていると上表した。 | ||||
| 10月 | 聖明王は使いを遣わして、釈迦仏(シャカホトケ)の金銅像一躯(カネノミカタヒトハシラ)・幡蓋(ハタキヌガサ)若干・経論若干巻を奉った。 | ||||
| 蘇我稲目が拝む事を勧め、物部尾輿・中臣が反対した。 | |||||
| 蘇我稲目に試しに祭らせる。 | |||||
| 疫病が流行り、仏を投げ捨てるよう物部尾輿らが勧めるので、天皇はその勧めに従われる。 | |||||
| 仏像を難波の堀江に流し、寺を焼く | |||||
| この年、百済は漢城と平壌を放棄、新羅が漢城に入る | |||||
| 553 | 欽明 | 14 | 癸酉 | ||
| 1月12日 | 百済は使いを遣わして援軍を乞う | ||||
| 1月13日 | 百済の使い帰国 | ||||
| 5月1日 | 河内国から「泉郡の茅渟の海中から仏教の楽のおとがする」との報告が有る。 | ||||
| 溝辺値(イケベノアタイ)を遣わし探らせると、照り輝く樟木が発見された。天皇はその木で仏像を2対作る。 | |||||
| 6月 | 百済に使いを遣わす。 | ||||
| 7月4日 | 樟勾宮(クスノマガリノミヤ)に御幸。蘇我稲目が勅を承り王辰爾を遣わして船の税を記録させる。王辰爾に姓を賜って船史とする。 | ||||
| 8月7日 | 百済は使いを遣わして日本に弓馬を依頼する。 | ||||
| 10月20日 | 百済の王子余昌は全軍を上げて高麗に侵入し戦闘を行い高麗王を東聖山の上に追い退けた。 | ||||
| 554 | 欽明 | 15 | 甲戌 | ||
| 1月7日 | 立太子。渟中倉太珠敷尊(ぬナクラノフトタマシキノミコト)を皇太子とする。 | ||||
| 1月9日 | 百済は使いを遣わして再度援軍を要請する。 | ||||
| 千の兵士と馬百匹・船四十隻を派遣すると詔 | |||||
| 2月 | 百済は使いを遣わして援軍を乞う。 | ||||
| 3月1日 | 百済の使いが帰国の途に付く | ||||
| 5月3日 | 内臣が援軍を率いて百済に立つ。 | ||||
| 12月 | 百済は使いを遣わして援軍の礼と戦況を伝え更なる援軍を乞う。 | ||||
| 聖明王戦死 | |||||
| 555 | 欽明 | 16 | 乙亥 | ||
| 2月 | 百済の王子余昌は弟を遣わして、聖明王の戦死を伝える。 | ||||
| 7月4日 | 蘇我稲目・穂積磐弓を遣わして吉備の五郡に白猪の屯倉を置く | ||||
| 8月 | 百済の余昌が出家を希望するが臣下に止められ思いとどまる。 | ||||
| 556 | 欽明 | 17 | 丙子 | ||
| 1月 | 百済王子の恵が帰国を願い出る。筑紫の軍船を使い護衛して送る。 | ||||
| 7月6日 | 蘇我稲目らを備前の児島郡(コジマノコオリ)に遣わし屯倉を置かせた。葛城山田値瑞子(カツラギノヤマダノアタイミツコ)を田令(タツカイ)とした。 | ||||
| 10月 | 蘇我稲目らを倭国の高市郡に遣わして、韓人大身狭(カラヒトノオオムサ)の屯倉・高麗人小身狭(コマギトノコムサ)の屯倉を置かせた。 紀国に海部の屯倉を置いた。 |
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| 557 | 欽明 | 18 | 丁丑 | ||
| 3月1日 | 百済の王子余昌即位。威徳王 | ||||
| 558 | 欽明 | 19 | 戊寅 | ||
| 559 | 欽明 | 20 | 己卯 | ||
| 560 | 欽明 | 21 | 庚辰 | ||
| 9月 | 新羅が使いを遣わして調を奉る。 | ||||
| 561 | 欽明 | 22 | 辛巳 | ||
| 新羅が使いを遣わして調を奉る。応接が劣っていたので怒って帰る。 再度使いを遣わして前の調を奉るがまた応接が劣っていた。しかも百済より下に置かれていたので腹を立てる。 問責の使者が泊まる場所を修理していると言われ、国に帰ってそのまま伝える。それ以降新羅は日本を警戒する。 |
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| 562 | 欽明 | 23 | 壬午 | ||
| 1月 | 新羅が任那の官家を滅ぼす。 | ||||
| 6月 | 新羅を内滅ぼす決意を詔す | ||||
| 馬飼首歌依(ウマカイノオビトウタヨリ)が讒言され拷問に耐えられず死亡。その子を神奴とした。 | |||||
| 7月1日 | 新羅は使いを遣わして調を奉る。新羅の使いは帰国を望まず。 | ||||
| 8月 | 大伴連狭手彦を遣わし数万の兵をもって高麗を討たせた。百済の計を用いて高麗を撃破し、戦利品を天皇に奉った。 | ||||
| 11月 | 新羅が使いを遣わして調を奉る。新羅の使いは帰国を望まず。 | ||||
| 563 | 欽明 | 24 | 癸未 | ||
| 564 | 欽明 | 25 | 甲申 | ||
| 565 | 欽明 | 26 | 乙酉 | ||
| 5月 | 高麗人頭霧利耶陛(ズムリヤヘ)らが筑紫にやってきて、山背国に配される。 | ||||
| 566 | 欽明 | 27 | 丙戌 | ||
| 567 | 欽明 | 28 | 丁亥 | ||
| 国々に大洪水が興り飢饉が起こる | |||||
| 568 | 欽明 | 29 | 戊子 | ||
| 569 | 欽明 | 30 | 己丑 | ||
| 1月 | 田部の戸籍を調査し確定せよとの詔 | ||||
| 4月 | 胆津は詔の通りに田部の戸籍を調査し確定した。 この功により白猪史(シライノフヒト)の姓を賜り、田令に任ぜられる。 |
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| 570 | 欽明 | 31 | 庚寅 | ||
| 1月 | 蘇我稲目が薨じた | ||||
| 4月2日 | 泊瀬柴籬宮(ハツセノシバガキノミヤ)に御幸。高麗の使いが暴風雨に苦しみ迷って海岸に漂着したとの報告が入る。 | ||||
| 泊瀬柴籬宮から帰り、東漢氏値糠児(ヤマトノアヤノウジノアタイアラコ)・葛城値難波(カツラギノアタイナニワ)を遣わして高麗の使いを呼び迎えさせられた。 | |||||
| 膳臣傾子(カシワデノオミカタブコ)を遣わして高麗の使者をもてなす。高麗の使者が調を騙し取られた事が発覚。膳の臣が貢物を探させ使者に変換させた。 | |||||
| 7月1日 | 高麗の使いが近江に来る | ||||
| 高麗の使いを相楽の館でもてなす | |||||
| 571 | 欽明 | 32 | 辛卯 | ||
| 3月5日 | 坂田耳子郎君を使者として新羅に遣わし、任那の滅んだわけを問わせる。 | ||||
| 高麗の貢物や書状を奉呈できず | |||||
| 4月15日 | 天皇は病にふせる。皇太子に急使を派遣 | ||||
| この月、崩御 | |||||
| 5月 | 河内国古市に殯した。 | ||||
| 8月1日 | 新羅は使いを遣わし殯に哀悼を評した。 | ||||
| この月新羅の使いが帰国 | |||||
| 9月 | 桧隈坂合陵(ヒノクマノサカイノミササギ)に葬る。 |