記紀年表(暫定)
神武天皇 綏靖・安寧・懿徳天皇 孝昭 ・孝安天皇 孝霊・孝元天皇 開化 ・崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇| 西暦年 | 天皇 | 天皇年 | 干支 | 月 日 | 出 来 事 |
| 572 | 敏達 | 1 | 壬辰 | ||
| 4月3日 | 即位 | ||||
| 5月1日 | 天皇は皇子と大臣に高麗の使いの所在を尋ねる。先帝の崩御に伴い止まっている事を嘆かれる。 | ||||
| 群臣をすぐに遣わし、貢物を調べ記録を京へ送らせた。 | |||||
| 5月15日 | 高麗の国書を大臣に授け史に解読させたが、三日かかっても解読できなかった。 | ||||
| 王辰爾(オウジンニ)が解読したので天皇と大臣にほめられる。 | |||||
| 史に勉強不足と叱る | |||||
| 国書が烏の羽に書かれていた為誰も読めなかったが、辰爾は炊飯の湯気で蒸し帛に羽を押し付けて写し取った後読む | |||||
| 6月 | 高麗の大使が副使の過ちを責める。副使らは共謀して大使を殺害する。 | ||||
| 7月 | 高麗の使いが帰国 | ||||
| 573 | 敏達 | 2 | 癸巳 | ||
| 5月3日 | 高麗の使いが越の海に停泊。船が壊れて溺れ死ぬものが多かった。 | ||||
| 吉備海部値難波(キビノアマノアタイナニワ)高麗の使いを送りさせる。 | |||||
| 7月1日 | 出発して数理行ったほどで難波は荒波を恐れて高麗の使い2人を海に投げ入れた | ||||
| 8月14日 | 難波は帰ってきて嘘の報告をしたが、嘘がばれて雑用の使役に落とされ郷里の国に帰れなくなった。 | ||||
| 574 | 敏達 | 3 | 甲午 | ||
| 5月5日 | 高麗の使いが越の海岸に停泊 | ||||
| 7月20日 | 高麗の使いが入京し、去年帰ってこなかった2人の使いの所在を聞く | ||||
| この事により、難波に刑罰が下される。 | |||||
| 10月9日 | 蘇我馬子を吉備国に遣わして、白猪(シライ)の屯倉と田部の農民を殖やした。田部の名籍を白猪胆津(シライノイツ)に授ける | ||||
| 10月11日 | 船史王辰爾(フネノフビトオウジンニ)の弟、牛に詔されせいを賜り津史(ツノフビト)とされる。 | ||||
| 11月 | 新羅が使いを遣わして調を奉る。 | ||||
| 575 | 敏達 | 4 | 乙未 | ||
| 1月9日 | 息長真手王(オキナガマテノオオキミ)の娘広姫を立てて皇后とする。 | ||||
| 2月1日 | 蘇我馬子が京に帰り、屯倉の報告をする。 | ||||
| 2月11日 | 百済が使いを遣わして調をたてまつる。例年より調が多かったので皇子と大臣に任那の事を怠らないように言う。 | ||||
| 6月 | 新羅が使いを遣わして調を奉る。例年より多かった。同時に多多羅(タタラ)・須奈羅(スナラ)・和陀(ワダ)・発鬼(ハチクイ)の四カ村の調も奉る。 | ||||
| 卜部に命じて海部王(アマノオオキミ)の家地と糸井王(イトイノオオキミ)の家地を占わせたところ吉と出た。宮を訳語田(オサダ)に造った。(幸玉宮(サキタマノミヤ)) | |||||
| 11月 | 皇后広姫が薨じる。 | ||||
| 576 | 敏達 | 5 | 丙申 | ||
| 3月10日 | 豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメノミコト)を皇后とする。 | ||||
| 577 | 敏達 | 6 | 丁酉 | ||
| 2月1日 | 日祀部(ヒノマツリベ)と私部(キサイチベ)を設ける | ||||
| 5月5日 | 大別王(オオワケノオオキミ)と小黒吉士(オグロノキシ)を遣わして百済国の宰(ミコトモチ)とした。 | ||||
| 11月1日 | 百済王は日本に還使(カエルツカイ)の大別王らに付けて、経論若干・律師(リツシ)・禅師(ゼンジ)・比丘尼(ビクニ)・呪禁師(ジュゴンノハカセ)・造仏工(ホトケツクルタクミ)・造寺工(テラツクルタクミ)の6人を献上した。 | ||||
| これらは、難波の大別王の寺に配置 | |||||
| 578 | 敏達 | 7 | 戊戌 | ||
| 3月5日 | 菟道皇女(ウジノヒメミコ)を伊勢神宮に侍らすが、池辺皇子(イケベノミコ)に乱暴されたことが露見したので任を解かれた。 | ||||
| 579 | 敏達 | 8 | 己亥 | ||
| 10月 | 新羅が調を奉った。一緒に仏像も届けた。 | ||||
| 580 | 敏達 | 9 | 庚子 | ||
| 6月 | 新羅が調を献上したが、納めないで返した。 | ||||
| 581 | 敏達 | 10 | 辛丑 | ||
| 閏2月 | 蝦夷数千が辺境を侵し荒らした。首謀者の綾粕を召して詔され「首謀者は前例に倣って殺そうとおもう」と | ||||
| 綾粕は恐れて帰順を誓い助命を願う。 | |||||
| 582 | 敏達 | 11 | 壬寅 | ||
| 10月 | 新羅が調を献上したが、納めないで返した。 | ||||
| 583 | 敏達 | 12 | 癸卯 | ||
| 7月1日 | 任那再建を葦北国造阿利斯登(足キタノクニノミヤツコアリシト)の子、達率日羅(タツソツニチラ)と計りたいと詔。 | ||||
| 紀国造押勝(キノクニノミヤツコオシカツ)と吉備海部値羽島(キビノアマノアタイハシマ)とを使わして百済に呼びにやる。 | |||||
| 10月 | 紀国造押勝らが百済から帰り、百済王が惜しんで日羅を手放さないと報告 | ||||
| この年、百済に再び紀国造押勝を派遣 | |||||
| 紀国造押勝は日羅と密かに会い、策を差付けられる。 | |||||
| 日羅来日 | |||||
| 12月末 | 日羅、百済人に殺害される。 | ||||
| 584 | 敏達 | 13 | 甲辰 | ||
| 2月 | 難波吉士木蓮子(ナニワノキシイタビ)を新羅に使いさせる。そして任那まで行く。 | ||||
| 9月 | 百済から来た鹿深臣(カフカノオミ)が弥勒菩薩の石像一体をもたらす。佐伯連も仏像一体をもって来る。 | ||||
| 蘇我馬子の仏教信仰始まる。 | |||||
| 585 | 敏達 | 14 | 乙巳 | ||
| 2月15日 | 蘇我馬子は塔を大野丘の北に建てて、法会の設斎を行う。 | ||||
| 2月24日 | 蘇我馬子が京に帰り、屯倉の報告をする。病気になる。 | ||||
| 卜部に占わせると「父の時に祀った仏に祟られている」との結果が出た。 | |||||
| 帝は「卜部の言葉に従い、父のあがめた仏を祀るように」と言う | |||||
| 帝の言葉に従い、祀る。このとき疫病が流行していて死ぬもの多数。 | |||||
| 3月1日 | 物部守屋と中臣が「仏を祀るから疫病がはやる」と奏上 | ||||
| 仏法を止めよとの詔が出る。 | |||||
| 3月30日 | 物部守屋、塔を壊し僧尼を捕らえた。 | ||||
| 天皇と物部守屋病にかかる。 | |||||
| 6月 | 蘇我馬子が奏上して、仏の力を借りたいと願い出て、蘇我馬子一人が仏法を行うことで許される。 | ||||
| 8月15日 | 崩御 | ||||
| 誄を述べるた時に蘇我馬子と物部守屋が互いを侮りあい、これ以降怨みを抱くようになる。 | |||||
| 9月5日 | 即位。磐余の地に宮を造る。(池辺双槻宮(イケノヘノナミツキノミヤ)) | ||||
| 蘇我馬子を大臣に物部弓削守屋を大連にする | |||||
| 9月19日 | 須加手姫皇女(スカテヒメノミコ)を伊勢神宮に斎宮として遣わす。 | ||||
| 586 | 用明 | 1 | 丙午 | ||
| 1月1日 | 穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)を皇后とする。 | ||||
| 5月 | 穴穂部皇子が殯宮(モガリノミヤ)に乱入し三輪君逆に止められ追い出される。 | ||||
| 三輪君逆が穴穂部皇子に殺害される。 | |||||
| 587 | 用明 | 2 | 丁未 | ||
| 4月2日 | 新嘗の大祭が行われる。この日、天皇が病に罹られる。 | ||||
| 三宝帰依の詔が出る。中臣連と物部連は大反対する。 | |||||
| 中臣連が迹見檮(トミノイチイ)に殺される。 | |||||
| 4月9日 | 崩御 | ||||
| 5月 | 物部大連の軍平が三度も人々を驚かし騒がす。最初、穴穂部皇子を天皇にしようとしたが、他の皇子を立てようとし、狩にかこつけて殺そうとした。 | ||||
| 6月7日 | 蘇我馬子は炊屋姫尊を奉じて、佐伯連丹経手(サエキノムラジニフテ)・土師連磐村(サエキノムラジイワムラ)・的臣真噛(イクハノオミマクイ)に命じて「穴穂部皇子と宅部皇子(ヤカベノミコ)を殺せ」と | ||||
| この日の夜、穴穂部皇子殺害される。 | |||||
| 6月8日 | 宅部皇子殺害される。 | ||||
| 6月21日 | 善信尼らは馬子に百済に行って受戒の法を学びたいと願う | ||||
| 6月 | 百済の調使が来朝したので、善信尼の願いを告げ連れて行くよう依頼するが、「王の許可を得てから」と保留される | ||||
| 7月 | 蘇我・物部が戦闘。 | ||||
| 厩戸皇子が「勝たせてくれたら、護世四王のために寺をたてる」願を掛ける | |||||
| 物部大連が射殺され、物部軍壊走 | |||||
| 乱が収まって後、摂津国に四天王寺を造る。大連の家の奴半分と、居宅とを分けて、四天王寺の奴と田荘(タドコロ)とした | |||||
| 7月21日 | 磐余池上陵(イワレノイケノウエノミササギ)に用明天皇を葬る | ||||
| 8月2日 | 即位 | ||||
| 倉梯宮を造る | |||||
| 588 | 崇峻 | 1 | 戊申 | ||
| 3月 | 大伴糠手連(オオトモノアラテノムラジ)の娘、小手子(コテコ)を立てて妃とする。 | ||||
| 百済が使いにあわせて、僧恵総(エソウ)・令斤(リョウコン)・恵ショクらを遣わして仏舎利(ホトケノシャリ)を献上 | |||||
| 受戒の法を学ばせるために善信尼らを使いと共にたたせる。 | |||||
| 法興寺創建 | |||||
| 589 | 崇峻 | 2 | 己酉 | ||
| 7月1日 | 近江臣満(オウミノオミミツ)を東山道(やまのみち)の使いとして蝦夷の国の国境を視察させる。 宍人臣雁(シシヒトノオミカリ)を東海道(ウミツミチ)の使いとし東方の海辺の国を視察させた。 阿倍臣を北陸道(クルガノミチ)の使いとし、越などの諸国の境を視察させた。 |
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| 590 | 崇峻 | 3 | 庚戌 | ||
| 3月 | 善信尼ら帰国。桜井寺にすむ。 | ||||
| 12月 | 山に入って寺の用材伐採 | ||||
| 591 | 崇峻 | 4 | 辛亥 | ||
| 4月13日 | 敏達天皇を磯長陵(シナガノミササギ)に葬る。母の皇后の葬られたところへ合葬 | ||||
| 8月1日 | 任那再建の下問。群臣は任那再建に賛同する。 | ||||
| 11月4日 | 紀男麻呂宿禰(キノオマロノスクネ)・巨勢猿臣(コセノサルノオミ)・大伴噛連(オオトモノクイノムラジ)・葛城烏奈良臣(カツラギノkナラノオミ)を大将軍に任じ2万余の軍を筑紫に出兵 吉士金(キシノカネ)を新羅に、吉士木蓮子(キシノイタビコ)を任那に遣わし任那の事を問わせた |
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| 592 | 崇峻 | 5 | 壬子 | ||
| 10月4日 | 奉られた猪を指差し、「いつか猪の首を切るように、にくいものの首を切りたい」という。そして、朝廷で武器を集める。 | ||||
| 10月10日 | 蘇我馬子はこの話を聞き警戒する。 | ||||
| 10月 | 法興寺の仏堂と歩廊の工を起こす。 | ||||
| 11月3日 | 東の国から調を奉ってくると騙して、東漢値駒(ヤマトノアタイコマ)と遣って天皇を弑す | ||||
| 11月5日 | 早馬を筑紫の将軍に送り、「国内の乱れで、外事を怠ってはならない」と告げる | ||||
| 11月 | 東漢値駒は蘇我嬪河上娘(ソガノミメカワカミノイラツコ)を奪って自分の妻とする。蘇我馬子に知れ馬子に殺される。 | ||||
| 12月8日 | 推古天皇即位 |