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卑彌呼4(神功皇后)

 近畿説や畿内説のほとんどは大和説ですが、八木荘司さんの『古代からの伝言(産経新聞連載)』のように大和の北方説などもあります。しかしそういう説では、個人名を文献に探すことは困難です。
 先の事典類の個人名は、すべて『日本書紀』にあるもので、とうぜんながら、狭い意味での大和説で出てくる名です。
 そこには三人の名があがっていますので、まずはこの三人について検討してみます。

 このうち〈神功皇后〉は、『日本書紀』の編者そのもの(または少しあとの校訂者)の意見で、『日本書紀』の神功皇后紀は、あたかも『魏志倭人伝』の年代に合わせたかのように引き延ばされているのが特徴です。『魏志倭人伝』からの引用も再三あり、それを読むと、〈卑彌呼〉だけでなく〈臺與〉も〈神功皇后〉として記述されているように見えます。
 つまり、『日本書紀』の編者(または少し後の校訂者)は、「卑彌呼=神功皇后説」をとっていたわけです。
 しかしこれは、神功皇后紀の修正紀年の研究がすすんできた明治期以降は、信じる人はほとんどいなくなりました。
〈神功皇后〉の実紀年は、シナ史書の倭の五王の記述などからも、古代朝鮮史書の三国史記からも、崩年干支からも、考古学からも、四世紀と考えられていますので、無理なのです。
「卑彌呼=神功皇后説」をはじめて否定したのは、本居宣長とされており、宣長の偉さがわかります。
(神功皇后の実在性については、南原次男『日本の建国史』など参照)

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