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卑彌呼6(倭迹迹日百襲姫命の謎)

 三人のさいごが、〈倭迹迹日百襲姫命〉です。奇妙な名ですが、ヤマトトトヒモモソヒメノミコトと読みます。トトヒはトトビかもしれません。また姫命(ヒメノミコト)は「ヒメミコト」と読んでいた可能性があります(三省堂の辞典参照)。

 この〈倭迹迹日百襲姫命〉は、時代的に〈卑彌呼〉に照応しますし、「《邪馬台国》大和説」にはかならず出てくる特異な皇女なので、以下に、かなりの回数をさいて、くわしく検討(諸説を紹介)してみます。

 じつは、この姫には、〈天照大神〉の尊称とそっくりな尊称が、『記紀』と同じくらい古い伝承を記すとされる古文献に残されています。
 また、「ヒメコ」にとても近い発音の別名もあります。

 ですから、とうてい無視はできず、大正時代から多くの論文があります。
「卑彌呼=倭迹迹日百襲姫命説」の代表は笠井新也や肥後和男(*)で、時代的に考古学の知見と合わないというので傍流でしたが、平成になって「年輪年代法」が登場してから、支持者が急増しました。
 私は断定はいたしませんが、考古学ファンのジャーナリストには、「もう決まった」という人も増えてきたそうです。

 まず血統を調べ、つぎに名前の謎を調べます。

(*笠井新也は著名な考古学者鳥居龍藏の講義で勉強して、大正時代から当時は少数派だった大和説の論文を考古学雑誌にいくつか発表しました。「卑彌呼=倭迹迹日百襲姫命説」を論文の形で発表したのは笠井が最初とされています。肥後和男は文学博士・東京教育大教授で、若いころ笠井の説に刺激をうけてさらにこれを学問的に深めて、多くの論考を発表しました。肥後は戦後多くの古代史家が左翼史観に流れたとき、頑として信念を貫いたため、学会では傍流となったようですが、最近また見直されつつあります。昭和40年代に四年間にわたって常陸宮妃殿下に歴史学をご進講。その業績は『肥後和男歴史学を考える(教育出版センター)』参照。)

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