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卑彌呼9(崇神天皇と百襲姫の年代)

 大和の南方橿原にはじめて拠点を築いた神武天皇が「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」という、はじめて国を治められたという意味の尊称をもつことは有名ですが、実質的に大和とその周辺を統一したとされる第十代の崇神天皇も「御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)」という同音同意の尊称をもっています。
 また、ともに珍しい「神」という名のつく漢風謚号をもっています。
「神」がつく天皇は、あと應神天皇のみです。應神天皇は国内を完全に統一し、朝鮮半島まで勢力を伸ばして任那を確立した天皇として有名で、八幡神社の祭神になり、武力集団の源氏によって八幡大菩薩として信仰されました。

 應神天皇の話は余談ですが、つまり、神武天皇と崇神天皇は、「国をつくった」と賞賛され、これに朝鮮半島南部の地歩を固めた應神天皇を合わせて、三天皇に、奈良時代の学者が「神」のつく漢風謚号を追贈したのです。
 したがって、崇神天皇の御代というのは、神武天皇や應神天皇に匹敵する大和朝廷の重大な転機であり、大拡大期だったという伝承が、飛鳥・奈良時代の学者に伝わっていた――と想像されます。

 崇神天皇の御宇は、修正紀年では、昔は三世紀末とか四世紀とかいう意見もあったようですが、考古学が発達した最近では、西暦250年前後(たとえば230年ごろから270年ごろまでの間)、という見解が主流になりつつあるようです。
『魏志倭人伝』における〈卑彌呼〉は、三世紀の前半に活躍し、248年ごろに没したと推定されていますから、崇神天皇の御代の前半が〈卑彌呼〉の時代の後半に一致するらしいのです。
 ということは、崇神天皇のオバまたは大オバ(昔は大オバもさらにその前も単にオバといったようです)にあたる〈倭迹迹日百襲姫命〉の活躍時代は、〈卑彌呼〉の活躍の時代とほとんど一致する――ということです。この年代の一致については、あとでさらに記します。

 さてここで、神武天皇と崇神天皇の母親を見てみますと、神武天皇の母親は玉依姫で、崇神天皇の母親は伊香色謎媛となっています。いずれも高貴な生まれではありますが、その名前は特別なものではありません。
 ところが・・・!
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 7の大和朝廷の敵対者への恩賞のところで、明治維新の事を書き忘れました。最後まで反抗した榎本武揚を死刑にしなかったばかりか、四度も大臣にしたり、西南戦争で反逆した西郷隆盛の巨大な銅像が新政府のお膝元にできるのを許したり、新政府に協力しなかった旧幕臣に盛大に勲章を贈ったりしました。西郷さんの銅像を見てその由来を知った外国人は信じられない思いをするそうです。

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