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卑彌呼19(神武東征と考古学1)

 百襲姫命の話はまだ続きますが、ちょっと息抜きに、神武東征と考古学の問題について少し述べます。
 ただし以下は、一次資料を私が料理したものではなく、二次資料・三次資料の紹介とそれへの感想にすぎません。

【小野忠熈博士の研究】
 小野忠熈博士は、1920年の生まれで、立命館大学の地理学科を卒業して遺跡調査に邁進し、多くの業績を上げた方です。
 とくに高地性集落の遺跡研究は有名で、考古学における一つのジャンルを確立したといってもよいと思います。
 高地性集落とは、稲作などに適した低地の背後にある、決して住み良いとは言えない高地にできた集落ですが、面白いのは、永続的ではなく、多くの場合、ある時期に突然出来て、しばらくして消えることです。
 これは、低地に居住していた集団が、ある理由で急に高地に移り、しばらくしてその理由が無くなったために稲作に良い元の低地に戻ったこと――を意味するのではないか、と考えられます。
 この高地性集落というのは、見晴らしが良くて守りに強い高台に造られるのが特徴で、「見張り台」とか「山城」かといった機能を持っているようです。
 日本の歴史でこのような一種の山城が盛んに造られたのは、

A戦国時代
B白村江の大会戦など、六〜八世紀の朝鮮半島や大陸との関係が緊張した時代。
C高地性集落の形で遺跡が残されている弥生時代。

 の三時代であり、詳細が分かっているAとBの理由が戦乱を乗り切るためであるので、Cの弥生時代の「高地性集落=山城」も、戦乱を生き抜くための智恵ではなかったか――との推測が成立します。
 とくに、古くから永続的に高地にあったのではなく、低地から突然移って、しばらくしてまた低地に戻ったらしいことが遺跡から言えるので、なおさら、上の推測がなされるのです。

 小野博士などの研究結果をもとに田中琢という人が作図した分布地図は有名(たとえば『高地性集落と倭国大乱――小野博士退官記念論集』雄山閣出版)ですが、四国の一部を除くと、神武東征の経路に沿ってのみ、高地性集落が分布しているのです。
『日本書紀』や『古事記』による神武東征の地図はよく描かれていますが、それとこれとを見比べますと、ドキッとするほど一致しているのです。
 驚くべきことに、神武軍が大阪湾奥から退いて熊野周りで背後をつくために紀州を迂回したその迂回ルートにまで、高地性集落が分布しているのです。
 そして神武東征ルート以外にはほとんど無いのです。
 多くの学者がこのことに注目して、神武東征や倭国大乱と高地性集落とが関係しているのではないか――との仮説を唱えました。
 この仮説はもう数十年も前からあり、大衆的な邪馬台国の本にも出ています。
 ただし、弥生時代の集落の年代の信憑性の高い推定はなかなか困難で、前記の有名な地図も、かなり幅のある期間の集落を集めたもののように思えますし、データが古いようです。
 ですから、あまり大胆なことは言えなかったのですが、最近の史料はかなり充実してきていますので、大胆な仮説を唱える人も出てきました。

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