01.序
02.卑彌呼の読み
03.人名辞典の卑彌呼
04.神功皇后
05.倭姫命
06.倭迹迹日百襲姫命の謎
07.百襲姫の両親と兄弟姉妹
08.百襲姫二カ所説
09.崇神天皇と百襲姫の年代
10.百襲姫の母親の謎
11.倭のつく女性
12.倭のつく女性の検討
13.なぜ日本を倭と書くのか
14.なぜヤマトと読むのか
15.ヤマトの由来
卑彌呼Q&A1
16.姫と命
17.迹迹日百襲の謎
18.続・迹迹日百襲の謎
19.神武東征と考古学1
20.神武東征と考古学2
21.神武東征と考古学3
22.神武東征と考古学4
22補足
23.崇神天皇
24.崇神天皇の国風謚号
25.百襲姫命の活躍
「草薙の剣」雑談
26.続・百襲姫命の活躍
27.続続・百襲姫命の活躍
28.百襲姫命の活躍3
29.百襲姫命の活躍4
30.百襲姫命の活躍5
31.記紀以外の百襲姫命1
32.記紀以外の百襲姫命2
33.記紀以外の百襲姫命3
34.記紀以外の百襲姫命4
35.記紀以外の百襲姫命5
36.記紀以外の百襲姫命6
37.記紀以外の百襲姫命7
38.記紀以外の百襲姫命8
39.記紀以外の百襲姫命9
卑彌呼22(神武東征と考古学4)
【高城修三氏の結論】
高城氏は、
◎第三段階→神武東征
◎第四段階→倭国大乱
――とあてはめ、『記紀』における第四段階の対応を、神武東征が終わってから、崇神天皇による三輪山麓の本格政権発足までの間の混乱として考えています。
崇神天皇が四道将軍を派遣するまでに、大和の周辺でかなりの混乱があり、それが〈倭迹迹日百襲姫命〉にも関係していると読みとれることから、高城氏の推理は、かなりの迫力があります。
つまり、
◎第四段階→倭国大乱=神武天皇と崇神天皇の間の時代に起こり〈倭迹迹日百襲姫命〉がその鎮圧法を忠告したとされる混乱――ということです。
『日本書紀』などにある神武東征の経路は、戦闘の経路ではなく、進軍の経路です。
神武天皇の東征は、小さな波乱は別にしますと、まず岡山県から神戸のあたりに数年滞在して準備し、大阪湾奥(古代には現在の大阪湾のさらに奥に汽水湖があった)から大和へ向かおうとしたがうまくいかず、後退して紀伊半島を迂回して大和の南部から大和盆地へ向かって激戦して成功します。これは第三段階にある「表六甲・紀伊北中部・大和南部」という高地性集落分布と、よく照応しています。
(大阪湾奥での闘いを考えると、第二段階とも照応していますが、この五段階もまだ大まかなものだと思います)
オロモルフがあえて大胆な仮説をつくりますと、つぎのようになります。
『日本書紀』などの1〜5→高地性集落の第一段階〜第二段階
『日本書紀』の6(神武東征)→高地性集落の第三段階(第二段階を含むかも)
『魏志倭人伝』の倭国の乱→高地性集落の第四段階(=百襲姫命の活躍時代)
『日本書紀』の7(四道将軍など)→高地性集落の第五段階
これが、「神武東征は西暦100年前後だろう」というオロモルフの憶測の根拠です。
オロモルフとしましては、高地性集落遺跡の年代のさらなる精密な研究が、倭国大乱や神武東征の史実性の検討に欠かせなくなるだろうと予想しております。
たしかに言えるのは、「高地性集落の研究は文献史学と考古学とを結ぶ重要な接点である」――という事です。
最後に、この高地性集落のこれまでの研究成果は、「《邪馬台国》九州説」の中心に据えられている卑彌呼以後の東遷説では、説明困難であることを、記しておきます。
もし卑彌呼が九州の女王でその後継者が東遷したとしますと、それは時代的に第五段階かそれ以後という事になりますが、現在の考古学のデータでは、その時代の高地性集落の分布は、大和の外側の東へ北へと伸びているのです。つまり崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応しますが、九州から大和への進出とは合わないのです。
このことも、考古学者や考古学ファンが大和説に傾く大きな理由になっています。
(以上は、憶測から仮説に進化しかかっている、という程度の話であって、まだまだデータの足りない問題であることを強調しておきます。戦史学によるさらなる研究も必要です)