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卑彌呼27(続続・百襲姫命の活躍)

 このようにして、大和朝廷の《大和》周辺(奈良盆地)は朝廷に帰属し、政権は安定になります。
 すなわち、
A.大和朝廷の先祖神である〈天照大神〉を《元伊勢》に奉斎。
B.《大和》とその周囲の土地の神だったらしい〈倭大國魂神〉を
  《大和神社(オオヤマトジンジャ)》に奉斎。
C.《大和》そのものでもある《三輪山》の神〈大物主神〉を
  《大神神社》(=三輪山そのもの)に奉斎。

 これによって、混乱は鎮まり、ぶじに祭政がなされることになりました。
 とくに《大神神社(オオミワジンジャ)》は、ヤマトの名の基になったと考えられる《三輪山》の神を祀るのですから、〈天照大神〉についで重要だったと考えられます。
 そしてその重要な祭祀を崇神天皇に忠告したのが、〈倭迹迹日百襲姫命〉だったわけです。
 ABC三つの神社は、物部氏の《石上神宮》と並んで広大な境内(社領)を持っていましたが、B.は保持する豪族が衰えたのか、あるいは出雲の勢力が遠のいたためか、藤原氏が権力を握るようになってから社領を失いました(といっても普通の神社に比べれば今でも豪壮ですが)。
《石上神宮》は朝廷の部下の神社なので、ここにはあまり書きませんが、やはり山そのものが境内で広大でした。しかし、戦国時代に豊臣家の命令で社領が何十分の一にまで減ってしまいました(といっても今でも相当に広い!)。

 ところが、その戦国時代においても、《伊勢神宮》と《大神神社》は、社領は安泰であり、逆に武将から寄進を受けたほどでした。
《伊勢神宮》が別格であることは、誰でも知っており、その社領は東京山手線の内側ほどもあります。
 一方《大神神社》も、織田・豊臣・徳川三代にわたって保護され、検地も免れ、豊臣からは領地の寄進も受け、かえって増収になりました。
《大神神社》の境内はご神体の《三輪山》全体であり、その大きさは現在の皇居の四倍もあります。
 さらに、大和の一宮であり、官幣大社であり、神位は正一位です。
 戦国の三大武将が、他の多くの寺社領を没収したときも手厚く保護したのは、この《大神神社》を敵にまわすことはすなわち朝廷を敵にまわすことを意味していたからです。
 大和朝廷の祭祀を見てみますと、この神社を《伊勢神宮》に次いで重要視していることがわかります。
《大神神社》での祀りは国家としての祭祀でしたし、歴代の天皇が崇拝しました。
 現在でも皇室は《伊勢神宮》につぐ重要神社として、天皇皇后が御親拝しておられるのです。昭和天皇・香淳皇后も参拝されましたし、今上天皇陛下・皇后陛下も参拝されました。
 皇室の遠い遠い先祖が、この《大神神社》の山麓で政権を確立したことが、宮中の儀式としてずっと継続しているのです。

 遠つおやの しろしめしたる 大和路の
 歴史をしのび けふも旅行く
(昭和天皇御製/昭和六十年)

『魏志倭人伝』に卑彌呼が「鬼道をよくする」という意味の言葉がありますが、卑彌呼が百襲姫命と関係なかったとしても、この鬼道とは神道をあちらの発想で表現したものでしょう。
 ですから、百襲姫命が《三輪山》(=大物主神=大神神社)の神託を天皇に告げて天皇を助けた事績は、あちらの表現で言えば、まさしく「鬼道をよくする」なのです。卑彌呼では無かったとしても・・・。

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