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卑彌呼30(百襲姫命の活躍5)

 反逆を制圧した戦いの模様はいかにも古代らしい面白いものなのですが、その後、とつぜん、奇妙な説話が語られます。
〈倭迹迹日百襲姫命〉が《三輪山》の神の〈大物主神〉と結婚してしまうのです。
 しかし〈大物主神〉は夜しか姿を見せないのでお顔をはっきりと見ることができず、
「もうすこし留まってください。朝になればお顔が見えるでしょう」と懇願します。
〈大物主神〉は「それもそうだ。では朝になったら櫛箱に入っていよう。だが私の姿を見て驚かないように」と述べます。
〈百襲姫命〉は変に思いましたが、朝になって櫛箱をあけてみると、そこにはとても綺麗な小さな蛇が入っていました。
〈百襲姫命〉は驚いて思わず叫びます。すると蛇は人の形になって、「お前は私に恥をかかせた。今度はお前に恥をかかせてやる」といって、空を飛んで《三輪山》に去ってしまいます。
〈倭迹迹日百襲姫命〉は後悔して急に座り込みますが、その弾みに箸で陰部を突いて死んでしまうのです。

《大神神社》で蛇が尊重されるのはこのためですが、《三輪山》には白い蛇が多くいたので「〈大物主神〉=白蛇」という伝説ができたのでしょう。
〈大物主神〉との結婚自体は、元来が神につかえる神子(巫女)とは神と結婚した女性なのだという思想があるので、不思議ではありません。
〈百襲姫命〉が〈大物主神〉の神託を告げる《三輪山》の神子――もちろん神秘的な霊力をもった高度な巫女――であったことをあらわしているにすぎません。
 しかし、箸で下腹部をつかれて死ぬ伝承はいささか異常です。
 卑彌呼の死を連想させるような唐突な死です。
「尖ったもので下腹部を突かれて突然死する」という話は、神代にもありますが、何かを暗示させるような古代の重大事件です。

 さて、本文に戻って、没した〈倭迹迹日百襲姫命〉は大市の里に埋葬され、その墓は《箸墓》と名づけられた――とあります。
 現在でもそのように呼ばれており、三輪山麓《大和》の要所にあります。
 その次に、
「この御墓は、昼は人がつくり夜は神がつくった。使用した石は、大坂山から御墓まで人民が並んで手渡しして運んだ」
 ――と記し、その様子を歌った歌までが書かれています。
 大坂ニ繼ギ登レル
 石群ヲ
 手遞傳ニ越サバ
 越シカテムカモ
 ――という歌です。
 大坂山とは大和と河内の間にある山で、現在二上山と呼ばれているあたりです。この山の石を大勢で手渡ししつつ運んでいる有様を歌っているのです。

 これが、古墳時代の到来を告げる御墓として有名な、日本で最初の超巨大前方後円墳《箸墓》です。墳丘長だけで二百八十メートルもあります。現在は埋められていますが、発掘調査の結果周濠跡が発見されており、それまで入れるとはるかに大きい。東京ドームの何倍もあります。

 このように死の有様や墳墓がつくられたときの様子や歌までが書かれているのは、『記紀』としては異例中の異例で、最初で最後といってよいと思います。
 古代の天皇紀では、天皇の死もただ崩御とだけ、墓も御陵名が一行で書かれているだけがふつうですし、場所すら書かれていない天皇もいるくらいなのに、ここでは天皇ではない一皇女なのに、異常なまでに詳細なのです。
 天皇でない女性であるにもかかわらず『日本書紀』の編纂者が、歴代天皇の墓所より遙かに詳細な記述をあえて行ったのには、そこになにか特別な事情があった――と考えざるをえません。
 しかもその大きさは隔絶していて、後円部が『魏志倭人伝』にある卑彌呼の墓の大きさとほぼ同じなのです。

 これほどまでに、〈倭迹迹日百襲姫命〉の話は〈卑彌呼〉の話と照応しており、したがって〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説が発表された歴史も古いのですが、それが主流になってこなかったのは、《箸墓》の造営年代が〈卑彌呼〉の死よりずっと後だとされてきたからです。
 しかし平成10年ごろから、「年輪年代法」の発達によって、〈卑彌呼〉の死と一致する可能性が強くなったため、「《邪馬台国》大和説」が急浮上したのです。
 宮内庁の資料によりますと、〈卑彌呼〉の死の西暦250年ごろの土器も発見されているようです。もちろん年代の問題はこれから精密化しなければなりませんが・・・。

 つぎに、『記紀』以外の資料を検討してみます。

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