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卑彌呼31(記紀以外の百襲姫命1)

《大和》とその周辺の奈良盆地をここでの大和としますと、その大和を少なくとも三世紀から支配していたのは大和朝廷です。
 では、その大和朝廷が確立する前に(または神武東征の前に)、大和の地に勢力を持っていた集団は何か、については、たくさんの研究があります。
 その最大公約数としましては、
甲:出雲一族
乙:〈饒速日命〉系列
 ――の二つです。
『記紀』には葦原中国(アシハラノナカツクニ)を平定するために、出雲一族と苦戦する様子が長々と語られています。
 この葦原中国とは、『記紀』においては天上と地下の間ですが、史実としてはたぶん大和のことであろうと、多くの学者が述べています。
 古代においては奈良盆地は一種の水郷であり、周囲の山々から(たとえば《三輪山》から)流れ出る川は今よりずっと幅があり、数も多く、その間の微高地に人々が居住していたと考えられています。
(ちなみに《箸墓》もそのような微高地にあります)
 葦は水辺に生えますから、微高地の左右は当然葦原だったと考えられます。また葦は稲の親戚なので、葦の生える近くは、稲の栽培に適していた筈です。
 大和の人たちが生活する微高地は、まさしく「葦の原の中の国」で、しかも米のできる土地だったのです(その上鉄や朱もとれました)。

 北九州に本拠(高天原)を持っていたらしい大和朝廷の先祖としては、この葦原中国に勢力を持つ「甲:出雲一族」をなんとか承服させて、大和に進出すべく軍事行動に出たのでしょう。
 それが文献史学的には『記紀』における国譲りの伝承となり、考古学的には高地性集落遺跡の分布となったのでしょう。

 出雲一族のおおもとの本拠地がどこだったのかについては、諸説あるようです。
1.大和であってのちに追われて現在の出雲に逃れた。
2.現在の出雲から大和に進出していたが、追われて本拠に戻った。
3.その中間的な場所にいて、大和にも出雲にも勢力を持っていたが、最後に現在の出雲に落ち着いた。

 いずれにせよ、大和朝廷の力にはかなわず、大和に痕跡を残しながらも、その主体は現出雲に落ち着き、そこに巨大な神社を創ることを許されて誇りを満足させながらも、大和朝廷への反抗心を失うことなく現在に至ったのでしょう。
 明治になってからも、政府の神道政策に対して独自性を主張して出雲教ができ、それは今も健在で、そうとうな力があります。

 つぎの〈饒速日命〉ですが、この一族は、『記紀』では神武天皇と戦って、大阪湾では撃退したものの、熊野周りの奇襲には勝てず、その主流は最後は大和朝廷の配下になり、のちに婚姻をさかんに結んで重臣になります。
 ではこの〈饒速日命〉とは何者かというと、多くの説では、元々高天原の有力者で、『先代旧事本紀』によれば、瓊瓊杵尊の兄弟です。少なくとも近縁とされています。
 つまり、高天原から〈天照大神〉などの指示で大和の地に進出して出雲一族を駆逐したものの、そのまま独自性を保って大和の支配者になっていたと思われます。
(《三輪山》周辺のヤマトという名は〈饒速日命〉たちがつけたとも考えられます)

 野心的な神武天皇は、激戦の末、この同族である饒速日命一族を帰服させて、かわって大和の地の大王となったわけです。
 つまり、「出雲一族→饒速日命一族→大和朝廷」という変遷です。
 この変遷ののち、出雲一族は大和朝廷とは疎遠になりましたが、饒速日命一族のうちの物部氏系統は、大和朝廷に取り込まれ、同時に物部氏も朝廷を利用し、盛んに婚姻関係をもって、ほとんど大和朝廷と一体の氏族になりました。
(元来が近縁だったのですが)
 しかし、そうはいっても朝廷とは異なるという誇りもあり、『記紀』とは違う独自の伝承を大切にしていたようです。
 さらに、同じ〈饒速日命〉系といっても、物部氏とは別の系統の尾張・海部一族などは、朝廷には逆らえないまでも、さらに独自性を強調していたようです。

したがって、〈饒速日命〉の系列の豪族たちが書いたと思われる古文書は、大和朝廷確立の史実を別の角度から見た可能性があり、『記紀』を補う上できわめて重要です。

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