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卑彌呼32(記紀以外の百襲姫命2)

 物部系の神話では〈饒速日命〉は、〈瓊瓊杵尊〉と同じく高天原から天下ったのですが、九州の日向ではなく直接大和の近く(河内)に降臨し、そこから大和に入ったとされています。
 そして、〈瓊瓊杵尊〉が「三種の神器」をいただいたのと同様に、饒速日命は「十種の神宝」をいただいたとされています。その中には二種の神鏡や剣や玉もあります。つまり「三種の神器」と重複していて、それより種類が多いのです。
 物部系(含む尾張系?)が編纂したといわれる『先代旧事本紀』の「天孫本紀」によりますと、〈饒速日命〉系の系図は以下のとおりです。

系図1
〈饒速日命〉は大和の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を娶って、生まれた子どもが宇麻志麻治命で、その子孫が物部一族です。
 物部という名が出てくる前に、すでに天皇との婚姻をさかんに結んでいます。
 また面白いのは、出雲系の女性と天皇が婚姻関係をもった形跡があり、その息子も出雲という名がつけられていることです。高天原から出雲への国譲りの使者が出雲族の女性と結婚してしまった神代紀を思わせます。
 この物部系のその後は、歴史の本でよく知られるとおりで、蘇我氏に破れるまで、大和朝廷を支える重臣として栄えました。

系図2
 つぎに同じ〈饒速日命〉が天道日女命を娶って、生まれた子どもが天香語山命で、その子孫が尾張(尾治)・海部(アマベ)氏などです。
 こちらの系図にも、天皇との婚姻が見られます。五代目の妹が孝昭天皇の皇后の世襲足姫命です。しかし系図1ほどではありません。

 この系図2の尾張氏は、尾張の地を支配した豪族で、尾張以外の地にもかなりの勢力を持っていたようです。
 おそらく、百襲姫命の時代には朝廷とあまり親密ではなく、争っていたかもしれません。〈卑彌呼〉が悩んだ狗奴国とは、尾張だったのかもしれません(違うかもしれませんが)。
 尾張一族は、景行天皇の御代になりますと、「三種の神器」の一つの日本武尊の「草薙剣」を熱田神宮に奉斎する責任者になっていますので、微妙なところで融和した形跡があります。
 微妙というのは、日本武尊は大和朝廷の後継者争いに敗れたという説もあるからです。つまり天皇家を継げなかった尊を大事にしたというわけです。
 その一代前の垂仁天皇の御代の伊勢神宮創建は、この尾張一族に睨みをきかす目的もあっただろうとされています。伊勢は尾張を経由しないで東海に出られる場所でもあります。

 つぎの海部一族ですが、これは本拠が現在の丹後半島で、天橋立のあたりです。
 日本海に出る要衝を抑えていた、海洋族だといわれており、大和から日本海に直接出たい大和朝廷としては、ぜひとも味方につけたい豪族でした。
 伊勢神宮をつくる前に、「八咫鏡」と「草薙剣」を奉斎して〈豐鍬入姫命〉(臺與の有力候補)が元伊勢をめぐりますが、大和の地を離れた最初の元伊勢が、じつはこの丹後の天橋立の地でした。つまり海部一族の本拠地だったのです。
 これは、明らかに、大和朝廷の戦略です。
 さらにその後雄略天皇の時代に、この丹後の地の昔からの神〈豊受大神〉を、伊勢の外宮に祀ることになりました。
〈天照大神〉にお食事をさしあげる神として呼び寄せられたのですが、これも明らかに、丹後の地を朝廷の支配下におくための戦略です。
〈豊受大神〉は、丹後の地の農業を興したとされる五穀豊穣の神で、記紀神話では〈天照大神〉の親戚ですが、おそらくはひじょうに古い地元の神です。
 丹後は元丹波ですが、丹波は田庭から来たとされ、農業をあらわす地名です。

 この海部一族の本拠には、はじめ、〈饒速日命〉や〈豊受大神〉が祀られ、のちに〈天照大神〉が祀られるようになったのですが、その神社が《籠神社》です。
 そしてこの《籠神社》の宮司家が海部家で、先に記しました現在第八十二代という超長寿家系なのです。
 なお天橋立はこの《籠神社》の参道です。
 そして、この《籠神社》に、記紀とは異なる伝承を記す国宝古文書『勘注系図』があり、その中に〈倭迹迹日百襲姫命〉の名が見られ、しかも〈天照大神〉と同じ尊称が記されているのです。

(注:ここで記す系図とは、古代の豪族たちがそれを主張したり誇りに思っていたという意味であって、DNAがつながっていたかどうかはまた別の問題です)

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