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卑彌呼34(記紀以外の百襲姫命4)

 国宝になった「海部氏系図」は、歴代を縦一列に記した、
A『縦系図』
 と、詳しい注を付した、
B『勘注系図』
 よりなり、この『勘注系図』が問題なのです。
 以下に、成立の由来をざっと記します。

 七世紀の初め、推古天皇の御代に、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがありました。『記紀』の元になったのだろうとされる有名な資料です。
 その貴重な史書類は大化改新における蘇我家滅亡のおりに焼失してしまったのですが、この推古天皇の国史蒐集時に〈饒速日命〉の子孫で丹波国(のちの丹後)の豪族かつ国造だった海部(アマベ)家の海部直止羅宿禰が『丹波国造本記』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存しました。
 奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前のことです。

止羅宿禰の三代あとの養老五年(西暦七二一年)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。
 養老五年といえば、『古事記』が完成した和銅五年(西暦七一二年)のわずか九年後、『日本書紀』が編纂された翌年です。
 これは、朝廷の求めに応じて『記紀』編纂用の史料を再提出した機会に、自分たち一族の史書を整備する意図だったのかもしれませんし、また『記紀』の内容に異論があって、独自に編纂したのかもしれませんが、後者の可能性が高いように思われます。
おそらくこういう史料編纂は、多くの豪族が皇室の求めに応じてなしたり、また『記紀』に不満をもって独自になしたりしたでしょう。
有名なものに物部系の『先代旧事本紀』や齋部廣成の『古語拾遺』がありますが、《籠神社》の系図ほどの古さはちょっと類例がありません。

 それから平安前期、西暦八五九〜八七六年の貞観年中になって、第三十二世の海部直田雄祝が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷に差し出すための自家の系図を作成し、『籠名神社祝部氏系図』と名づけて丹後の役所に提出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存しました。
 これが、現在まで伝世されて『海部氏系図』と呼ばれている国宝のなかの『縦系図』です。
しかしこの系図は各代に一人ずつの代表者だけを縦に並べた系図ですので、詳細はわかりません。しかも、ある意図があったらしく、第四世から第十七世までが抜けているのです。
この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇の時代前後に相当していますし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当しています。

 つまり、
「大和朝廷の確立期と考えられる〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇や〈卑彌呼〉の時代の前後数代だけが抜けている」
――のです。
 この欠落は明かに意図的であり、極めて重大な事実です。
(これらの系図では、「X世孫」という記法が用いられています。初代の子を兒、その子を孫、曾孫を三世孫、その子を四世孫・・・という表現法です。ですから三世孫は四代目になります)

 そこで息子の第三十三世の海部直稻雄という人物が、仁和年中(西暦八八五〜八九年)に、それまでの《籠神社》の秘史をもとにして『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』なる詳しい説明つきの系図をつくりました。
 これが略称『勘注系図』で、そこには『縦系図』で抜けていた大和朝廷確立期の海部氏の先祖(つまりは〈饒速日命〉の子孫)のこともくわしく記されています。
 また天孫降臨についても独特の物語があります。
 その内容は、『古事記』『日本書紀』などとはかなり違っていて、海部氏と遠い親戚の物部一族(+尾張一族?)が編纂したとされる『先代旧事本紀』に似ています。
 大和朝廷の神武天皇と張り合った〈饒速日命〉の子孫を重要視しているのです。
 したがってこの『勘注系図』の内容は、朝廷の正史に抵触するものでした。
 じつは、『先代旧事本紀』よりさらに露骨なのです。
 そこで、朝廷から危険視されることを避けるために、「秘記として他見を許さず。海神の胎内に鎮め」――と子孫に命じ、神社の奥に秘匿しました。

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