[トップページ]>[歴史のページ]>[誤解と曲解の女帝問題]
01.1.ある女性評論家のエッセイへの疑問
02.2.過去の女帝についての史料
【 2.1 女帝一覧 】
03.【 2.2 第33代推古天皇 】
04. 上記の続き([推古天皇の略年譜])
05.【 2.3 第35代皇極天皇/第37代齊明天皇 】
06. 上記の続き([皇極・齊明天皇の略年譜])
07.【 2.4 第41代持統天皇 】
08. 上記の続き
09.【 2.5 第43代元明天皇 】
10.【 2.6 第44代元正天皇 】
11.【 2.7 第46代孝謙天皇/第48代稱徳天皇 】
12.【 2.8 第109代明正天皇 】
13.【 2.9 第117後櫻町天皇 】
14.3.歴代女帝のおかれた環境
【 3.1 第033代推古天皇〔554?−628〕 】
【 3.2 第035代皇極天皇/第037代齊明天皇〔594−661〕 】
【 3.3 第041代持統天皇〔645−702〕 】
【 3.4 第043代元明天皇〔661−721〕 】
15.【 3.5 第044代元正天皇〔680−748〕 】
【 3.6 第046代孝謙天皇/第048代稱徳天皇〔718−770〕 】
【 3.7 第109代明正天皇〔1623−1696〕 】
【 3.8 第117代後櫻町天皇〔1740−1813〕 】
16.【 3.9 女帝の歴史の整理第 】
17.4.現在の皇族
18. 上記の続き
19.いくつかの文献
誤解と曲解の女帝問題06
[皇極・齊明天皇の略年譜]
◇降誕(西暦593年/寶皇女と呼ばれた)
◇20歳前後……欽明天皇の曾孫で用明天皇の孫にあたり、また聖徳太子の甥にもあたる高向王の妃となり、韓王子と呼ばれている御子を生んだと伝えられる。
その後まもなくして夫を亡くしたらしい。
この高向王も皇族の中の重要な地位(次代の天皇の候補)にあったわけで、寶皇女が生まれながらにして高い地位にあったことがわかる。
なお高向王や漢王子のその後については、詳細は不明。
◇32歳……田村皇子(舒明天皇)の妃となり、のちの天智天皇、孝徳皇后、天武天皇をつぎつぎにお産みになった。当時としてはかなりの高齢出産である。
田村皇子は寶皇女にとっては実の叔父である。寶皇女の両親も近親結婚なので、ここでも何代も続く近親結婚がみられ、その結果として天智天皇(中大兄皇子)や天武天皇のような天才が生まれている。
田村皇子としては、即位を目前にして、皇后にふさわしい有力な皇女だった寶皇女を、高齢を無視してあえて妃に選んだらしい。なお田村皇子と寶皇女はほとんど同年齢である。
◇37歳……田村皇子が舒明天皇として即位した二年に皇后となる。
◇49歳……舒明天皇が崩御したため、夫を継いで天皇に即位して皇極天皇となる。
この即位は、皇子の天智天皇(中大兄皇子)の成長を待つ意味と複雑な政治情勢によるらしい。
◇53歳……退位して同父母実弟の孝徳天皇に譲位。
◇62歳……孝徳天皇の崩御にしたがって再び即位し齊明天皇となる。
(このときすでに中大兄皇子は30歳になっていたが、この皇子は藤原鎌足とコンビを組んで大化改新などの革命に邁進しており、舒明・皇極・齊明と三代の天皇の時代に実質上は日本の指導者として活躍している。すなわち聖徳太子のような摂政に近かった)
◇68歳(崩御)……齊明天皇の時代には、飛鳥の地に豪華な庭園をつくるために大動員をかけて「狂心の渠」と批判されるなどした。
その遺跡が亀の形の石の庭園として発掘されるなど有名になっている。
また百済が危機に瀕するなど外交問題でも波乱の時代であった。
実子・中大兄皇子の助けをえてこの波乱の時代を送り、68歳で崩御された。
そして長く皇子のままで政治を主導した中大兄皇子が母親である齊明天皇をついで天智天皇となった。
この女帝の人生は、推古天皇以上に波瀾万丈で、大化改新前後を生き抜いた女傑でした。
この皇極・齊明天皇は天才的政治家として著名な天智・天武両天皇を産み、また孝徳天皇の皇后も生んでいますが、それはすべて皇后に立たれる前のことでした。
したがって、天皇に即位してから御子を生むことなど、考えられない生涯でした。
むろん在位期間中には夫もおりませんでした。
推古天皇と同じく、現在の女帝問題を考える場合に重要な史実です。
(つづく)