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日露戦争時の無電望楼折衝4

◆◆◆ 8.惨めだった清国との折衝結果 ◆◆◆

 その後、明治33年の義和団の事件などがあって折衝が遅れましたが、それでも形式的には申し入れたようです。
 しかし、言を左右するなど、いいかげんな返事しか得られず、体よく拒絶されてしまったそうです。

 田丸氏は、つぎのように評しています。
「日清戦争に勝利を収めた後でもあり、もっと有能な外交官を得ておれば、その後大きな影響があったものをと惜しまれる」

 まったくその通りです。
 肝心の折衝担当の公使が「最初からやる気が無い」のですから、うまくいく筈はありません。
[現在中国や韓国にいる外交官と同じですね]
 この外務官僚のだらしのなさによりまして、海軍は余計な苦労をしなければなりませんでした。


◆◆◆ 9.どうしようもなかった韓国との折衝結果 ◆◆◆

 他方韓国で折衝にあたった特命全権公使林権助は、ある程度は折衝したらしいのですが、適当な口実で拒絶されてしまいました。
 そこで借地を釜山にしぼって申し入れましたが、これも受諾されず。
 結局、
甲:軍事力を背景に強硬に申し入れる。
乙:折衝を継続しながら、事実上は建設してしまう。
 ――の二案しかないだろう、という結論になり、双方ともに不可能だとして、韓国への無電望楼建設も消滅してしまいました。


◆◆◆ 10.結局、日露戦争ではどうしたのか ◆◆◆

 清国も韓国も、要人たちは、ロシアに籠絡されてしまって、これが極東が植民地になってしまうかどうか(シナ、朝鮮半島、日本の人たちがロシアの奴隷になって消滅してしまうかどうか)の瀬戸際であるとの認識も責任感もなく、日本ただ一国が多大な犠牲を払って戦い抜きました。
 そして、朝鮮半島が戦場になってから、いくつかの半島沿岸の島に必死で無電望楼を建設して、ロシア艦隊との戦いに活用しました。
 一方シナの大陸沿岸の方は、ほとんど建設できずに終わったようです。

 しかしそれでも、日本海に浮かぶ日韓双方の小島などに多くの無電望楼を作り、日本海軍はそれらを最大限に活用して、ロシア艦隊を撃滅しました。

[有名な竹島にも設置されました。そのための竹島調査が多くなされており、当時かなりの数の日本人が居住していたことが、日露戦史に記されています。完全に日本人が活躍していた島であり、韓国とは無関係でした。オロモルフはこの時代の日本海軍による竹島調査資料を防衛庁戦史室で発見しまして、諸方面にコピーして送りましたが、その価値を分かってくださって丁寧な礼状をくださったのは、中村粲先生だけでした]

[無電望楼は目視によって敵情を探り、さらに無電によって敵の情報をキャッチし、味方の軍艦や国内の司令中枢と連絡しますが、ほとんどの無電望楼は国内要所と有線で連結されました。近くは有線電話、遠方は有線電信です。この有線網によって、必要な情報が東京の大本営や軍令部に送られました。島の場合にはこの有線網は海底ケーブルでした。現在のように無線による自在な通信は出来ませんでした。また暗号も未発達でした。なお日露戦争ではほとんどの分野で日本の技術が上でしたが、暗号の解読はロシアが上だったようです(というよりも日本人が苦手とする分野です)]

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