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「三種の神器」の心21

[承前]

〈二〉
 つぎに、「神剣」が失われてしまった大事件について、記します。
 安徳天皇の寿永四年三月二十四日(西暦一一八五年)、壇ノ浦の源平合戦に巻き込まれた形で、わずか七歳の安徳天皇が海に沈むという悲劇がありましたが、このとき「三種の神器」も動座して船上にありました。
 幼年の安徳天皇を抱いて身を投げたのは、平清盛の妻で天皇の祖母にあたる二位殿でしたが、そのとき彼女は「神剣」を腰につけ「神璽」(=「八坂瓊勾玉」)の御箱をかかえていました。
「神璽」は軽くて箱に入っていたので入水ののちに浮き上がり、源氏の兵士・片岡太郎經春によって拾われました(平家物語)が、「神剣」は箱がなくしかも腰につけていたため浮かばず、のちに源氏兵士や海女たちが動員されて、必死の捜索がなされましたが見つからず、ついに行方不明のままとなってしまいました。
 このとき、安徳天皇の母親で清盛の娘にあたる建礼門院も同時に入水したが、源氏の兵士が熊手で引き揚げて助かったそうです(吾妻鏡)。

 一方「神鏡」は安徳天皇の乳母だった大納言佐局が櫃ごとかかえて海に入ろうとしましたが、源氏の矢で衣が船に縫いつけられて果たさず、船上に残りました。
 この「神鏡」を、何も知らない源氏の兵士が蓋をあけて覗こうとしたところ、たちまち目が眩んだという伝承があります(吾妻鏡)。
 このとき船上にあった平家の平時忠が乱暴な源氏兵士を制止して「神鏡」を大切に扱うよう説得し、京都へ戻ってその功績を述べて命乞いしたが入れられなかった――という話もあります。
 源義経は、兄の頼朝から「「三種の神器」を大切にせよ」と厳しく言われていたので、助かった「神鏡」を丁重に扱って、後に「神璽」とともに宮中に戻しました。

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