01.1 天皇陛下の御発言
2 光仁天皇の即位の謎
02.3 高野新笠(たかののにいがさ)出自の謎
4 英雄・桓武天皇の野心
03.5 母親・高野新笠の血統潤色
04.6 遺伝子の推理
7 武寧王は日本で生まれた!
05. 上記の続き
06. 上記の続き
8 渡部昇一氏の意見
07.9 現在につながる韓国/朝鮮の歴史とは?
10 むすび
付録1:
08.対馬を狙う韓国の野望
09. 上記の続き
付録2:
10.〈八咫烏〉は〈三足烏〉か否かについての文献調査(1)
11.〈八咫烏〉は〈三足烏〉か否かについての文献調査(2)
12.〈八咫烏〉は〈三足烏〉か否かについての文献調査(3)
本文への補遺
13.(1)『神皇正統記』に見る桓武天皇の事績
14.(2)若い人に推薦できる『日本書紀』の現代語訳が見つからない悩み
その他
15.三足烏補遺
[3 高野新笠(たかののにいがさ)出自の謎]
光仁天皇は、天皇になるとは思っていなかった方なので、高貴な身分の井上内親王の他に、身分の低い家柄の女性もそばに置いていました。
その中の一人が高野新笠です。
新笠の父親は、百済系帰化人とされる和史高野乙繼(やまとのふひとたかののおとつぐ)で、母親は土師宿禰真妹(はじのすくねまいも)とされています。
父親の「和史」というのは、当時の制度のなかでは、きわめて低い氏姓(家柄)でした。
「和(やまと)」とは、この時代ではほとんどが百済からの帰化人系(『新撰姓氏録』で諸蕃と分類されている)の氏で、名の由来は現在の天理市にあった「大和郷」から来ているそうです。
和というと日本の別称ですが、そういう古代的な意味はまったくありません。
「史(ふひと)」というのは、元々は官職名で、履中天皇のころにはじまった、文書・記録・出納などを司る職ですが、その職にいた人々が次第にその官職名を姓としてつけるようになったとされています。
つまり「和史」とは、百済から帰化して天理市のあたりに住居を与えられ、のちに役所の記録係になった人たちの氏姓というわけです。
これは、氏姓を持つ人々の中でも、身分的には、かなり下であったとされています。
その一族のうちでとくに功績の大きかった人たちは、のちにもっと上の姓を貰っていますが、高野乙繼はそのような人物ではありませんでした。
さらに、高野乙繼がどのような経緯で帰化したのかも、百済でどのような地位にいたのかも、分かっていません。もっと前に帰化した人物の子孫がそう名乗っていた可能性もかなりあります。その場合には、日本人との婚姻が繰り返されていると思います。
オロモルフは、その可能性の方が高いと思っていますが、それは憶測のみです。
とにかく不明な事が多く、史料からはっきりと分かるのは、帰化系の低い身分だったという事だけです。
(もともと飛鳥・奈良時代の帰化人たちの身分は低いのが通り相場だったようです。時間とともに純日本人の中に拡散し、氏姓も日本人的になっていったようですが・・・)
つぎに母親の土師宿禰真妹についてですが、土師は喪葬を扱って埴輪などを作っていた古い一族の氏(『新撰姓氏録』で神別の天孫族と分類されている)で、宿禰は朝臣の次に位する姓だそうですが、同じ土師宿禰にもいろいろあり、真妹は傍流の出とされています。つまりやはり低い身分なのです。
というわけで、こういう両親のもとに生まれて光仁天皇の妃になった高野新笠は、ふつうなら皇室ではほとんど問題にされないような身分の一族の出だったのです。
現代では、氏姓のことはほとんど問題にされませんが、奈良時代の朝廷にあっては大変重要であり、したがってそれが息子である桓武天皇の大きなコンプレックスになっており、その克服のために、家系の大幅な潤色をやってのけたのです。
[3]への注
百済の滅亡は西暦663年の白村江の大会戦が原因ですから、そのずっと後に百済から帰化したというのは、考えにくいことです。高野乙繼の祖父の代に帰化したのなら年代的には分かります。だとすればおそらく、その後は百済人どうしだけでなく地元の日本人とも婚姻を重ねていたでしょう。現在の在日と同じです。
[4 英雄・桓武天皇の野心]
第五十代桓武天皇は、いかにも帝王という呼称にふさわしい野心家として有名です。
別の観点から言えば、あふれるような才能を発揮して功績をあげた天皇でした。
その業績は、
「壮大な長岡京の造営」
「時代を変えた平安京の造営」
「強力な軍事力を使った蝦夷大征伐」
「自分が生きているうちに自分の業績を記録するために正史『続日本紀』を異例の編纂」*
――などで知られています。
*天皇の記録は、崩御後に後の天皇の命で編纂公刊されるのが通例ですが、桓武天皇に限っては、自分が命令して作ったのです。このため、『続日本紀』の最後が桓武天皇の治世の前半の記録になっており、崩御のあとで編纂された『日本後紀』の冒頭が治世の後半となっています。この強引さは、当然、後の史家に批判されました。