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桓武天皇の生母問題5

(第7章の続き)
(2)『百済新撰』では――
 この史書は『三国史記』よりずっと古いのですが、本国では失われていて、『日本書紀』の引用によってのみ存在が分かる本です。
 したがって以下は『日本書紀』の武烈天皇紀四年四月にある引用文です。

[末多王(東城王)は無道であって、人民に暴虐な行いをした。国民はみな末多王を排除して武寧王が立った。諱は斯麻(シマ)王という。これは△支王子の子である。そして末多王の異母兄である。△支が大和に参向(一種の人質)した時、筑紫島に到着して、斯麻王を生んだ。島から送還したが、都に着くまでに島で生まれた。そこで島(シマ)と名付けたのである。今、各羅(東松浦郡にある加唐島とされる)の海中に主島がある。王の生まれた島である。そこで百済人が名付けて主島とした]
(△=王+昆)

 つまり、武寧王は日本の島(シマ)で生まれたので、名を斯麻(シマ)とつけられた――という興味ぶかい記述であり、かつ東城王の兄としています。

(3)『日本書紀』では――
『日本書紀』の雄略天皇紀と、前掲武烈天皇紀には、日本側の編纂者の意見が記されています。
 雄略天皇五年四月と六月の記事では、

「蓋鹵王は王族の池津媛を雄略天皇に献上したが、天皇の命に背いて密通したため死刑になった。それを聞いた蓋鹵王は、女性では国の恥になるとして、弟の△支を人質として派遣して天皇に仕えさせることにした。△支は行くのはやむを得ないが、褒美に蓋鹵王の妃の一人をくれるように頼み、妊娠中の妃を得た。この妃は筑紫の各羅島で出産した。これが武寧王で、島で生まれたので島(シマ)君と名づけた」

 ――という事になっています。

 これは(1)の『三国史記』とは大きく違っており、また(2)の『百済新撰』とも、父が違っています。(3)の『日本書紀』の編者は(2)の引用の後ろに、この引用文は父親が違っており、蓋鹵王が正しいだろう――と注記しています。つまり、各資料のわずかな違いを検討して、「たぶんこれが正しい」という注までつけているのですから、『日本書紀』の編纂者の学識と良心がわかります。

(4)『武寧王陵』の記録では――
 昭和47年に韓国で『武寧王陵』から石誌が発掘され、それによって、
「西暦460年ごろ誕生し、同523年に崩じた」
 ことが判明しました。
 つまり先代の東城王とはほぼ同年齢だったらしいと分かったのです。
 そして、これらの史料から、『日本書紀』がほぼ正しく、『三国史記』が大きく間違っていることが証明されました。
(しかしそれでも韓国の学者は、『日本書紀』の記述は間違い、あるいは異説にすぎない――と主張してやまないようです。彼らの翻訳した『三国史記』の訳注でも、「『日本書紀』の記事は異説だ」と強弁しています。韓国の歴史学者の多くは、感情によって結論を決めているようです)

 つまり、新笠の先祖とされた武寧王は、「義父が日本に来たとき北九州の島で生まれた」可能性がきわめて大きいのです。
 これは百済と日本の関係の深さを物語るエピソードですが、このエピソードだけでなく、任那・百済・済州島など半島南部地方に多くの日本人が居住して活躍していたことは、『記紀』にも記されていますし、高句麗王の『好太王碑』にも出てきます。『三国志』などシナ史料にも、もちろん出てきます。

 済州島には、次の伝説があり記念公園もあるそうです。
「原初三人の男の神が誕生したが、女性がいなくて困っていた。それを聞いた日本の神が、老人の引率で三人の日本の娘を船に乗せて派遣した。三人の男神と三人の日本娘が結婚して、多くの子孫ができた」
『日本書紀』には、神功皇后が、(日本が支配していた)済州島を百済に進呈したという話が出ています。

 また、『三国志』の『魏志東夷伝(魏志倭人伝を含む)』の韓や倭の条を読みますと、朝鮮半島の南端部はすでに倭人の領域だったと解釈できる文章があります。

『三国史記』には、日本の丹波地方から半島に渡って新羅(百済の隣国)の王様になった人の話が記されています。
 すなわち新羅の第四代の王・脱解尼師今は倭国(九州)の北東にある多婆那国(丹波)の人で、前王を補佐して功績をあげて王の位についた、とあります。
 またこれに対応する話が、丹後(昔は丹波と言われた)の籠神社に古くから伝わっているそうです。
 新羅はのちに半島を統一した国ですから、桓武天皇の生母伝説から「現在の日本人の先祖は韓国人」とする話よりもっと明確に、「現在の韓国人の先祖は日本人」だという話になってしまいます。
 しかし、そんな幼稚な事を主張する反韓的な日本人はいないでしょう。
(この章続く)
 

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