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桓武天皇の生母問題8

[付録1:対馬を狙う韓国の野望]

◆10年ほど前、KDDのパンフレットを見ていて、不思議なことに気づきました。
 日本から周囲の国々への、光海底ケーブルのルート図なのですが、韓国へのルートがとても遠回りなのです。
 韓国への経路で最短なのは、もちろん、対馬と釜山近辺との間です。
 ところが光海底ケーブルの国際回線は、そういう至近距離を通らず、一つは、直江津〜ナホトカ間の対ロシアルートの中間地点から分岐して釜山に向かうルート、もうひとつは、千葉から太平洋側をぐるっとまわって済州島に行く超遠回りのルートです。

◆オロモルフはこの事に興味を持ったので、少し歴史を調べてみました。

◆明治時代の日韓ルートは、ロシア資本の入ったデンマークの企業『大北電信会社』が握っており、九州本島から壱岐や対馬に連絡するにも、外国の国際通信を使わねばならないという、屈辱を受けていました。
 これは後に、多額の金を払って、対馬まではなんとか日本の権限になりました。
 昭和に入りますと、東海大学創立者の松前重義さんが開発した無装荷海底ケーブルが、博多から釜山に敷設されました。
 終戦になりますと、これらのケーブルのうち残っていた二条とも米軍が使う事になり、日本はその修理だけを命じられました。
 日本が使えるのは、その一部と小容量の無線だけになりました。

◆やがて昭和27年に占領が終了しますと、二条の無装荷ケーブルの日韓の利用についての折衝が始まりました。
 しかしそれは難航し、何年たっても結論が出ずに、やがて消えてしまいました。
 消えた理由は、韓国の領土への執念だったとされています。

◆韓国は、昭和27年に李ラインを日本海に一方的にひいて領土権を主張し、多くの日本の漁船を拿捕し、3900人もの漁民を拉致し、そのうえ竹島を占領してしまいました。
 韓国政府の野望は、対馬の領有にもありました。
 そして日韓海底ケーブルの折衝が、その野望の舞台になってしまったのです。
 日本の常識でも世界の常識でも、日韓の国際線は対馬と釜山の間に決まっておりますが、韓国側は、「福岡と釜山の間が国際線だ」と主張してやまず、会議は物別れに終わってしまったのです。
 日本側の委員には徒労感だけが残ったようです。

◆韓国のこの主張は、もちろん、対馬を自国の領土に組み入れるための作戦です。
 国際通信というのは、利益その他すべての権利を双方の国で折半するのが原則です。
 したがいまして、福岡と釜山の間を国際線だと認めてしまいますと、その折半を地図上に置き換えたとき、対馬のほとんどは韓国の領分に入ってしまうのです。

(地図に物差しを当てて計ってみてください!)

 竹島に続いて対馬まで韓国領土になったら大変ですから、日本側も必死で応戦し、ついに物別れになってしまったのです。

◆日韓の通信回線は、経済的に破綻状態だった韓国にとってきわめて重要なものだったのですが、そんな事より、対馬を領有したいという野望の方が、はるかに優先したのです。
(もうひとつ、国際通信が気軽にできると、外国の情報が国民に知られて政権が危なくなるということもあったらしいですが)

◆戦後の日本と諸外国との海底ケーブルは、アメリカ、ロシア、中国、フィリピン、台湾・・・と次々に出来てゆきましたが、韓国との間ではずっと不毛のままでした。一番近い国がいちばん遅れたのです。
 対馬問題が尾をひいたからです。

◆1980年になってようやく、当時世界最先端と言われたCS−36Mという日本の技術で日韓海底ケーブルができましたが、そのルートとは、山陰の浜田市と釜山をつなぐものでした。
 なぜ浜田を選んだかについては、この問題の責任者の出身地が浜田だったからだ――などと笑い話が伝えられてもいますが、技術上の必然性などまったくありません。
 要するに、対馬問題を避けた適当なルートを選んだということです。
 電線会社で活躍した技術者の自伝を読みますと、この回線の完成を祝う祝典が行われたとき、韓国側でつくった記念のパンフレットには、「日本の技術」という言葉は一つも無かったそうです。
(日本人はその場で猛然と抗議するような事はせず、引退した後に想い出談でぶつぶつ言うのが常ですね)

◆この浜田ルートも、今では役目を終えて、光海底ケーブルの時代になりましたが、その対韓国ルートが実に奇妙なものであることは、書き出しの部分のとおりです。
(この数年のことは知りませんが)
 

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