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桓武天皇の生母問題12

[付録2:〈八咫烏〉は〈三足烏〉か否かについての文献調査(3)]

▼文献5
『古事記伝(本居宣長/江戸時代後半1798年ごろ最終成立)』

 江戸期最高の国学者とされる本居宣長の畢生の大作『古事記伝』の十八之巻に、

「和名抄に、歴天記云、日中有三足烏赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、とあるは心得ず、」

 ――とあります。
 つまり、『倭名類聚抄』の中で源順が『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』としているのは納得できない――と言っているのです。
 本居宣長は、膨大な資料を渉猟し、何十年にもわたって研究に研究を続けて、ついに『古事記伝』を完成させた大碩学です。
《伊勢神宮》のそばに住んでいて、神社の由緒にもひじょうに詳しい学者です。
 その大学者が、『〈八咫烏〉≠〈三足烏〉』としていることは、看過できないと思われます。
 ついでながら、本居宣長が伊勢神宮について詠んだ歌をひとつ。

「もの言わば神路の山の神杉に 過ぎし神代のことぞ問はまし」

▼文献6
『倭名類聚抄箋注(狩谷エキ斎/江戸時代後半)』(エキは木偏に液の旁)

 狩谷エキ斎は、本居宣長ほどの知名度はありませんが、江戸時代最高の考証学者として聞こえた人物です。
 安永四年(1775年)生、天保六年(1835年)没で、本居宣長の45年のちの生まれです。
 裕福な江戸商人の息子として生まれ、学問に精進して、とくに書誌学的方面に非凡な才能を見せました。

 業績の第一は度量衡研究で、『本朝度量権衡攷』は、正倉院はじめ全国を旅し、徹底した実物主義を貫いてできた著作とされ、平凡社の東洋文庫で見ることができます。
〈八咫烏〉の大きさについての考証なども有名です。

 業績の第二が、この『倭名類聚抄箋注』で、実証主義に基づいた、精緻を極めた考証によってできた、『倭名類聚抄』についての解説書です。本文より解説のほうがはるかに長い本です。活字印刷されたのは没後の明治十六年とされています。

 この中に、文献4の『陽烏(太陽に住む三足烏)』の部分についての長い解説がありますが、そこで、〈三足烏〉と〈八咫烏〉の関係について、狩谷は次のように述べています。

「頭八咫烏者、天照大神為神武帝遣以為郷導之神烏也、古事記所載同、源君以為日中烏者誤矣」

 源君とは源順のことです。
 つまり、文献4の源順の『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説は誤りだ――と記しているのです。
 本居宣長に匹敵するほどの考証学者が、こう述べていることは、やはり尊重すべきだと考えます。

▼『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説の発端
 以上のような文献があるにもかかわらず、多くの人が〈八咫烏〉の足は三本だと信じているようです。
 古舘さんが司会をしていたテレビのクイズ番組でも、そうなっていました。
 しかしオロモルフが見聞した範囲では、ほとんどの人は、以上のような文献を調査した上でそのような見解に達しているのではなく、漠然と信じているように思われます。
 では、そのような説がいつ頃からどのようにして出来てきたのか――ですが、たぶん鎌倉時代以降だろうとは思うものの、調査未了です。

▼辞書類の話
 多くの国語辞書に、〈八咫烏〉や〈三足烏〉はありますが、これをイコールで結ぶ記述は、源順の説の引用のみのようです。源順をはじめて引用したのは昭和七〜十二年の『大言海』のようです。その直後の『大辞典』でも同様な引用をしています。同じ人が書いたらしく文章はまったく同じです。
 また百科事典の類には、戦前から戦後まで、イコールで結ぶ話は出ていないようです。見逃しているのかもしれませんが。

▼オロモルフの取り敢えずの結論
 以上の文献調査から、日本サッカー協会への抗議は、「日本神話も書け」というのではなく、
「日本の協会なのになぜ中国伝説を採用するのか」
 ――の一点に絞るべきだと思います。
(協会の創始者が熊野出身だったので、こういうマークになったようですが、他にいくらでも考えられると思います)

▼私は、『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』が鎌倉時代以降の信仰だったとしても、それはそれで尊重はしたいと思っておりますが、あちこちの掲示板などを見ていますと、もっとずっと単純に決めつけているように思いますので、気になっているのです。
 

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