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桓武天皇の生母問題13

[本文への補遺]

 本文で、いくつか書き残したことがありますので、補遺として記しておきます。

(1)『神皇正統記』に見る桓武天皇の事績
 本文で記しましたように、『続日本紀』の最後は、桓武天皇の前半の事績となっており、そのあとは『日本後紀』にあります。
 桓武天皇は西暦737年〜806年で、在位期間は、781年〜806年でしたが、このうち、前半のほぼ10年が『続日本紀』に記され、その後のほぼ15年が『日本後紀』に記載されています。
『日本後紀』の桓武天皇の箇所は、全部で十三巻からなっていますが、残念なことに散逸が多く、現在残されているのは、巻第五、八、十二、十三の四つの巻のみです。
 したがって不明の事が多いのですが、断片的な引用文から推理できる事もあります。
 本稿に関係の深いその一つが、『神皇正統記』における引用です。

『神皇正統記』は、南朝の忠臣で大学者でもあった北畠親房が、天皇にご進講するために執筆したとされる史書で、1339年に初版がなったとされています。
 この本には「やまと」の語源、「倭」の語源などについての考察などもあって当時の考え方が分かり、とても興味深いのですが、本稿に関係するのは、巻二の應神天皇の条にある、次の文章です。

「異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(注1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。」

注1:『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とあります。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけての王朝の記録です。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言がありますが、これだけが『魏志倭人伝』には無いものです。日本からの使者の誰かが、自分を誇示するためにそう言ったのではないかと、思います。
注2:素戔嗚尊が朝鮮に行った話は、『日本書紀』の本文ではなく「一書では」とされるいくつかの異説を述べた書の四番目の書の中のごく短い記録です。「(高天原から)新羅に行ったが、この地には居たくない、と言って船を造って出雲の国に着いた」とあります。
注3:日本神話の神々。天神地祇。
注4:どうして
注5:三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
注6:日本神話の神々や皇族。
注7:『新撰姓氏録』のこと。

 この引用文の中に、「桓武天皇が三韓と日本人の先祖をごちゃごちゃにしてしまった本を焼き捨てた」という、看過できない文言があります。おそらく散逸した『日本後紀』の中に記されていたのでしょう。
 だとしますと、母親を格上げするために百済を重んじた桓武天皇も、先祖を百済の王様だと捏造する役人たちが数多く出たことに危機感を持って、それを抑える措置をとったのだと思います。
本文の[5 母親・高野新笠の血統潤色]の終わりの箇所に、「桓武天皇も氏姓の整理を意図していたようだ」――と記しましたのは、以上の資料によっています。

 話が少し逸れますが、反日韓国人やそれに雷同する自虐日本人は、ここに記したちょっとした事柄からも、下記のように「日本人の先祖は朝鮮人説」をいくらでも創作します。

 素戔嗚尊が新羅に行ってすぐ帰ったという記録は、神話の中の本文では無い異説を述べた箇所のさらにほんの一部にあるだけなのですが、それだけを取り出して大きく話を拡げて、「だから大和朝廷の先祖は朝鮮から来た」としてしまいます。
 また、北畠親房の引用文の中の「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが・・・」という箇所だけを取り出して、その前後から来る文意を無視し、さらに『神皇正統記』全体に流れる北畠親房の歴史観もまったく無視して、「このような勤王派に属する人までが、躊躇もなく古代の日韓の支配層が同種であると記している」と言い切っている人がいます。その人は韓国の文学博士らしいです。
 

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