トップページ]>[歴史のページ]>[日本の特許史]

INDEX

高橋是清の青春01

 高橋是清翁の話は、金融危機を救った財政家という側面から語られる事が多く、そういう観点からの伝記はたくさんある。
 しかし技術系のオロモルフとしては、それとともに、青春時代の高橋是清が、日本にはじめて特許制度(工業所有権制度)を確立した功績を、大いに顕彰すべきだと考える。
 そこで、従来の伝記では軽く流されていた青春時代の高橋是清について調べてみた結果を、まとめてみたい。
(高橋是清の青春は日本の青春でもある!)

◆◆◆不平等条約と特許制度の意外な関係◆◆◆

 不平等条約とは、強国が大砲を向けるなどの強圧的手段を使って弱小国に押しつける、不平等な条約のことで、それは植民地時代の欧米列強の常套手段であった。
 かつて極東の無名国だった日本も例外ではなく、安政五年(一八五八年)〜に、世情騒然とするなか、徳川幕府がむりやり締結させられている。

 この不平等条約を解消することは、明治政府の悲願であり、富国強兵・殖産興業などたいへんな努力が払われ、その努力がむくわれて、ようやく明治三十二年(一八九九年)七月から、不十分ながら条約改正が発効することになった。
 また、残された関税自主権については、明治四十四年に達成された。

 この不平等条約解消に、日本の特許政策が大きく貢献していることは、意外に知られていない。
 キーワードは《パリ条約》である。
 これは、特許・商標・意匠などの工業所有権を、国と国が相互に保護しようという主旨の条約で、明治十六年(一八八三年)のパリ会議で締結されたので、《パリ条約》と呼ばれている。
 日本に商標制度ができたのが明治十七年、特許制度ができたのが明治十八年だから、《パリ条約》ができたときはまだ日本はこれに参加する資格はなく、まったくの蚊帳の外であった。
 しかし、明治初期の日本の殖産興業政策は欧米を驚かすほどの迫力があり、したがって、日本に特許を輸出して儲けようとする列強は、特許制度ができる前後から、日本もこの《パリ条約》に加盟せよ――と激しい圧力をかけてきていた。

 このとき、矢面に立ったのが、不平等条約問題で有名な元勲井上馨であり、実務の中心が、のちに大蔵大臣として大活躍した、若き日の高橋是清であった。

 そして、青年・高橋是清の先見の明によって、日本はきわめてクレバーな対応をとることができた。
 それを、高橋是清の自伝『是清翁一代記(昭和四年)』からの引用によって記そう。

次ページへ

第一章INDEX


トップページ]>[歴史のページ]>[日本の特許史]