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高橋是清の青春02

◆◆◆井上馨を説得した高橋是清の卓見◆◆◆

 井上馨は明治の元勲の一人で、明治十八年にできた日本初の内閣の外務大臣として、不平等条約改正に尽力したが、その方法が拙劣だとして批判されて辞職し、明治二十一年には農商務大臣になった。
 農商務省は創設期の特許制度の所管であり、高橋是清はここで活躍していたが、井上馨は人づてに是清に対して、つぎの指示を出した。

「外國から新發明の機械を日本へ輸入しようと思つても日本へ賣つたら、直ぐに模造するから後が困るといつて二つや三つ位では賣らない状態である。故に、今日新式の機械を輸入することが必要であるから、その機械を保護するために、初めて輸入したる者には專賣特許を與えるよう法律を作れと大臣の命であるから、早速をれをやつてもらひたい」

 これは明らかに《パリ条約》の主旨そのものであり、したがってこの指示は、加盟のための法律づくりをせよ――という事にもつながっていた。
 井上馨の言葉には外国からの圧力の話は無いが、井上が外務大臣になったとき以来、列強から《パリ条約》に加盟して列強の特許を保護せよ――との強い働きかけが続いていたことは、他の資料から知られる。

 これに対して高橋是清は、特許制度調査のためにイギリスに滞在中に得た、特許局長秘書官ウエップ氏の次のような雑談を、井上に説明した。

「日本では今條約改正といふことで大變騒いでゐるが、こゝに考へねばならぬことは今度の條約改正では、日本側から求むることは澤山にあるが、外國側から日本に要求して利益となることは殆どない。強ひていへば發明、商標、版權の保護ぐらゐのものである。しかるに版權と商標は既に警察でこれを保護してゐるといふことだが、その上に發明までも保護することになれば外國人が要求する事柄は總て充たされて、あとには要求すべき利益は何もなくなってしまふ。それで發明の保護だけは決定せずに殘して置いて、條約改正の時にうまく利用することが日本のためである」

 高橋是清の記憶では、はじめは怒っていた井上馨も、詳しく説明するうちに顔つきがやわらぎ、その法律はもう作らなくてよい――と言ったという。

 このエピソード以来、大臣・井上馨は高橋是清の名を覚え、信頼は大きなものとなり、重用するようになる。

 いま考えると、外国特許の保護を条約改正交渉の取引材料に使うのは当然のことのように思えるが、明治二十一年の日本政府には、列強が特許によって日本支配を狙っているという認識はほとんど無かったから、井上の呑気さを責めることはできない。
 そして、そういう時代であるからこそ、イギリス人の雑談を鮮明に記憶していて、大臣に献策した高橋是清の達識が、よけい光る。
 さすがと言うべきである。

 事実、明治三十二年(一八九九年)の不平等条約改正に到達する過程で、この外国特許の保護問題――すなわち《パリ条約》加盟問題――は、大きな役割を果たすのである。
 このとき、是清はまだ三十三歳であった。

(他の資料によれば、是清のこの考えはじつは渡英の前からあり、他の達識の士も持っていたらしい。イギリスの話は、頑固な井上馨を説得する武器として使ったのであろう。井上は人を斬った事もある暴れん坊で、やや単純な所があったようである)

◆◆◆特許行政においても人材を輩出した明治日本◆◆◆

 明治十八年にはじめて発効した日本の特許制度の創設の実務担当者は高橋是清であるが、その前にも、多くの先見の明の持主が、その重要性を指摘していた。
 ざっと挙げてみても、

 伊藤博文
 大久保利通
 福澤諭吉
 神田孝平
 高峰讓吉
 渡部一郎
 村田文夫
 ・・・・
 などの人名が、史書に記されている。
 

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