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高橋是清の青春03

◆◆◆女中の子に生まれ、他家にもらわれる◆◆◆

 以下、高橋是清の波瀾万丈の青春を、特許行政と関連づけながら、語ってゆくことにしよう。
 高橋是清の人生は、生まれたときからすでに波乱に満ちていた。

 高橋是清は、幕末の安政元年閏七月(一八五四年九月)に、現在の東京都港区で生まれ、和喜次と名づけられた。
 父四十六歳、母十五歳のときの子である。
 父親は江戸城の屏風絵を担当していた恰幅のよい絵師で、川村庄右衛門(雅号探昇)といった。
 どんなに酔ってかえっても、かならず日記をつけたと伝えられるほど筆まめな人で、是清の資料保存の良さは、この父親の遺伝だとされている。
 母親は北原きんといって、川村家の女中だったが、肴屋の娘で性格のよい美人だったといわれる。
 きんはこのあと塩物屋に嫁いで、是清の異父妹・香子を生むが、二十三歳で病没した。

 和喜次は女中の子であるため、誕生直後に、仙台藩の江戸詰足軽・高橋是忠に里子としてあずけられたが、是忠の母・喜代子が同居していて、和喜次をとてもかわいがった。
 ある商家から養子の口があったが、喜代子はそれを断り、是忠を説得してくれたため、一年後には高橋家の正式の養子となり、是清と名づけられた。
 是清にとって喜代子は養祖母だが、母親同然の世話を受け、論語の素読などの基礎教養も教えてくれた。

 八歳のとき、寿昌寺という仙台藩菩提寺の小姓になったが、ここで才覚が認められて、十歳で横浜に出ることを許され、有名なヘボン博士の夫人などに英語を習った。
 十二歳のとき再度横浜に出て、イギリスの若い銀行家シャンド氏邸のボーイとなって英語を学んだが、このシャンド氏は、のちに明治政府に雇われて金融制度を日本人に教え、そのあと本国の著名な銀行家になり、日露戦争の戦費調達に奮闘する高橋是清を助けてくれた。
〔高橋是清にしても高峰讓吉にしても、明治の先覚者たちは、今の小学校の年齢で、単身遠方に留学して外国人に習ったりしている。当時の長崎留学は現在のアメリカ留学よりずっと大変なことだった。高峰は日本海側を船で行ったが、その船が遭難して死にそうになっている。平成の小学生とは大変な違い。オロモルフの世代とも大変な違いである〕

 銀行家シャンド氏との出会いは、まさに人生の奇遇であるが、このような幸運は、高橋是清の人柄が招き寄せたものであろう。
 女中の子であるにもかかわらず、足軽の正式の養子になり、また養祖母にとても可愛がられたことも、是清の強運と、周囲に好かれる人柄を示している。
 是清自身、自分は運の良い人間だったと述懐している。

◆◆◆騙されて奴隷となってアメリカに行く◆◆◆

 シャンド氏のボーイとして働きながら英語を習っているとき、運良く仙台藩からアメリカ留学の許可がおりて、慶應三年七月(一八六七年九月)、数人の年長者とともに横浜を出発した。
 わずか十二歳(年齢は満で記述している)で許可がおり、小額とはいえ仙台藩から留学の費用が出たのだから、是清の才覚はたいへんなものだったのだろう。
 このとき養祖母の喜代子から、
「日本の名誉を守るときに使いなさい」
 ――と、短刀を授けられ、切腹の作法を習った(*)。
 同じ船には、勝海舟の息子など何人かの有名人も乗っていたそうである。

 一ヶ月の航海ののち、無事サンフランシスコに着き、留学の仲介をしてくれた在日商人ヴァンリードの両親の家に一人あずけられるが、そこで冷たい仕打ちをうける。
 つぎにオークランドの金満家ブラウン家に移るが、そこではじめて、自分が「期間三年で買われた奴隷」であることがわかる。
 仙台藩がヴァンリードに騙されていたのだ!

 それから大変な苦労をした末、かろうじてブラウン家から脱出し、共に留学した年長者に助けられて、横浜を出てから一年半ののち、命からがら帰国した。
 帰国したとき、是清は十四歳になっていた。

 当時はこういうことはよくあったらしいが、今でいえば小学〜中学生の年齢で、異国に奴隷に売られて脱出するという苦労をしたのだから、土性骨がすわるはずである。

〔*十二歳で切腹の作法を習って家族と別れ、たった一人で渡米するのだから、明治の日本人が毅然としていたのは当然のことである〕
 

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