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高橋是清の青春04

◆◆◆帰国後の波瀾万丈◆◆◆

 ここまででも、高橋是清の人生はじゅうぶん波乱に富んでいるが、このあともまだまだ波乱はつづく。
 帰国したのは明治元年十二月(一八六九年一月)で、明治維新がおこっており、仙台藩に属する是清は、知らないうちに「賊軍」にされていたのだ。

 それを知った是清は、英語しか話せない外国人の真似をして難を逃れ、江戸の知人の家に潜んだが、しばらくして知人の世話で、わけを知った森有禮(のちの初代文部大臣)の書生となり、隠れながら英語を習った。
 身分を隠すため名前は橋和吉郎と変えた。

 翌明治二年十四歳になると世情も多少おちついてきたので、東大の前身である大学南校に入学するが、英語ができるというのですぐに教官の助手になった。
 このあたりが、明治初期のおもしろさである。
 ここで是清は、啓蒙家の神田孝平を知るが、神田は幻の特許法と呼ばれている《明治四年特許法》の立案者と推理されている優れた人物である。

 明治三年十五歳のとき、南校教頭のフルベツキ博士邸に住み込むが、茶屋遊びを覚えてしまったために博士邸を去ることになり、さらには南校の教官助手のポストも追われてしまう。
 収入が途絶えた是清は、なじみになった芸者の桝吉に養われる身となり、それが養祖母に見つかるが、桝吉は気だての良い女だったので、養祖母の信用を得たといわれる。

 しばらくして知人の世話で九州の唐津にできた英語学校の先生の職を得、養祖母の世話を芸者桝吉に頼んで九州に行くが、その歓送会のときに、吉原のインテリ芸者にお説教されて、がぜん奮起した。
 そして九州で猛勉を開始し、唐津の英語学校の運営に尽力し、多くの人材を育てた。
 この唐津でも、英語を危険視する旧武士から危害を受けるなどいろいろと事件があったらしいが、なんとか切り抜ける。

 そうしているうちに、桝吉から別れの手紙がきて、結婚をあきらめる。
 そのショックなのかもしれないが、酒を飲み過ぎて吐血して重症となるなど波乱がつづくが、明治五年の秋に唐津の学校を辞職して東京にもどり、再びフルベツキ博士邸に住む。

 そして、郵政事業の生みの親として知られる前島密の依頼で「大蔵省十等出仕」として通訳や翻訳の仕事につくが、前島の方針に反発して喧嘩し、すぐに辞職してしまう。
 このとき是清はまだ十七歳であった。

◆◆◆仕官・教育・結婚・失敗・貧困◆◆◆

 明治六年、十八歳になった是清は、元南校の開成学校に再入学し、生計は翻訳でたてた。
 この年の十月に、アメリカから帰国した森有禮の世話で「文部省十等出仕」となり、お雇い外人のモーレー博士の通訳を主な仕事として働き、その関係で勝海舟・西郷従道・伊藤博文夫人など多くの有名人の知遇を得る。
 勝海舟が数学の話をするので通訳に困ったというエピソードは、この時代のものである。

 このとき、モーレー博士の話によって、特許制度と著作権制度の重要性や、欧米が日本にそういう制度の出来ることを希望していることなどを知るようになる。
 これが、是清が特許制度に興味をもつようになる契機だった。

 こうしてようやく生活がおちついたので、養祖母の喜代子や異父妹の香子とともに住むようになる。
 そして明治六年十二月には開成学校を退学し、翌七年には変名の橋和をやめて高橋是清という本名に戻った。
 是清はこのとき、二十歳になっていた。
 ようやく危険が去ったのだが、このあとも、是清の人生は波瀾万丈である。
 

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