第一章:高橋是清の青春
第二章:欧米列強の特許制度
第三章:明治前発明家伝
第四章:明治十八年特許法の誕生
第五章:明治前期発明家伝
第六章:不平等条約と特許法
第七章:明治中後期発明家伝
第八章:大正〜昭和初期発明家伝
第九章:戦中〜昭和五十年代発明家伝
第十章:昭和の終わりから平成まで
高橋是清の青春06
縁のあった森有禮らの応援もあって、元老院のお偉方の説得にも成功し、明治十八年(一八八五年)四月には、日本初の特許法である《専売特許条例》が布告され、同年七月一日をもって無事施行された。
高橋是清三十歳の夏であった。
そして是清は、商標登録所と専売特許所の両所長を兼務した。
この年、日本に特許法ができたことを知った列強は、《パリ条約》に関する国際会議への招待状を送ってくるが、是清は国益を考えて出席に反対し、要人たちもこれを認めて、会議へは派遣しないことになった。
前述した、《パリ条約》加盟問題と国益を結びつける考えは、すでにこのころから高橋是清の信念になっていたことがわかる。
◆◆◆欧米珍道中の成果としての三条例◆◆◆
初の特許法が施行されたばかりの明治十八年十一月から一年間、高橋是清は、伊藤博文の意見によって、欧米を歴訪し、貴重な知識や資料を持ち帰った。
(この留守中に是清の代理をつとめたのが、初期から手伝っていた高峰讓吉だったが、その話は別の稿として記す)
この外遊中、アメリカの特許局から情報を得るために、ダンスを習って女性局員に近づいて便宜をはかってもらったなど、愉快で豊富なエピソードをつくっている。
そして帰国後、持ち帰った情報をもとにして、特許と商標条例の改正、意匠条例の創設などにとりかかった。
また特許局を農商務省の内局から外局に昇格させ、同時に大きな局舎の建設を進展させた。
八面六臂の活躍である。
家庭では、妻が病没したあとしばらく独身でいたが、明治二十年に原田品と再婚した。
翌二十一年には、可愛がってくれた養祖母の喜代子が没した。享年八十四歳なので、当時としては相当な長命であった。
明治二十一年十二月(三十四歳)、努力のかいがあって、
《特許条例》
《意匠条例》
《商標条例》
――という、現在に直接つながる工業所有権三法が公布され、明治二十二年(一八八九年)二月には、無事施行された。
このとき、《専売特許条例》の「専売」が取れて法律名の統一がなされた。また明治三十二年(一八九九年)からは、条例ではなく特許法というように「法」が後ろにつくようになった。
この三法には、明治十七年、十八年の条例には欠けていた審査の問題なども含まれており、近代法の条件をかなり満たしていた。
したがって、これをもって本格的工業所有権法の最初とする見解もある。
なおこの三法策定のとき、一時期農商務省大臣だった榎本武揚が――他の大臣が異論を述べるなかで――大賛成して強力に推してくれたとされている。
初代の逓信大臣でもある榎本武揚の、日本の工業技術発展への功績は、まことに大きなものがある。
明治二十二年には前述のように、信用を得た井上馨の推薦で東京農林学校長の兼務したが、この年の暮れ、前田正名らの依頼もあって、ペルーでの銀山開発を手がけることになって、農商務省を辞職する。ただし恩情によって非職(休職扱い)となった。
特許局長の職は秀才の誉れ高かった法学博士の奥田義人にゆずった。奥田は、のちに文相・法相・東京市長などになった人物である。
高橋是清は、行く先々で優れた実績を残しながら、すぐに次のステップに進んでゆくのだが、この銀山開発の結末は、じつに悲惨なものであった。
(工業所有権法制定時の苦労話などについては、あとで一括いたします)
01.不平等条約と特許制度の意外な関係
02.井上馨を説得した高橋是清の卓見
特許行政においても人材を輩出した明治日本
03.女中の子に生まれ、他家にもらわれる
騙されて奴隷となってアメリカに行く
04.帰国後の波瀾万丈
仕官・教育・結婚・失敗・貧困
05. 上記の続き
農商務省で天職を得る
06. 上記の続き
欧米珍道中の成果としての三条例
07.ペルー銀山で騙され、銀行で丁稚奉公し、再起をはかる