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高橋是清の青春07

◆◆◆ペルー銀山で騙され、銀行で丁稚奉公し、再起をはかる◆◆◆

 高橋是清の人生の浮き沈みの激しさは信じがたいほどのものがあるが、だからこそ、後に日本の経済的苦難を幾度となく救うことができたのであろう。

 明治二十二年十一月、三十五歳の是清は、日本の富を増やすことになると確信して、ペルーの銀山開発のために、有志を募って資金と人を集め、横浜を出発した。
 しかし、着いてまもなく、これが大嘘であることが判明する。
 事前に調査を依頼したはずの学者の資料も、じつは外国の資料を写しただけのものであったことがわかる。

 そして、死と隣り合わせの辛酸をなめ、必死で後始末をして、同行者の帰国に筋道をつけて、自分は大赤字を背負ったまま、翌年六月に、命からがら帰国した。
 そのすぐあと、赤字解消のために国内での鉱山経営を試みるが、これも失敗して、さらに赤字を増やしてしまう。

 心配した友人たちが、県知事の職などを勧めてくれたが、責任を感じて断り、家屋敷をすべて売り払い、自分は翻訳稼業、妻と二人の子どもも内職をするなど、貧窮生活を送る。
(こういう人生の大危機にさいしても、特許法制定時の膨大な資料をすべて自宅に保管していたのだから、是清の歴史資料保存への執念には驚く)

 帰国して二年たった明治二十五年六月、是清の才能を惜しんだ前田正名の紹介で日銀総裁に面会し、丁稚奉公から始めることを願い、日銀関連の建築を担当する事務所に入り、昔唐津で教えた生徒の部下になって働きはじめた。
 当然ではあるが、あっというまに頭角をあらわし、建築作業の大改革に成功し、数ヶ月で日銀の正式社員となる。
 このとき三十八歳になっていた。

 一年後の明治二十六年には、下関の支店長となり、二十八年には下関でなされた日清戦争講和会議のために尽力する。
 この年の夏には、横浜正金銀行の本店支配人となり、社内大改革に成功する。
 横浜正金銀行は、対外貿易のための当時唯一の銀行だった。大東亜戦争後は改組して、東京銀行になり、現在は東京三菱銀行になっている。

 明治三十年三月(四十二歳)には横浜正金銀行副頭取になるが、このころ、松方正義首相に金本位制即時断行を具申して、同年十月に実現させるという、離れ業を演じている。

 この時代は、日清戦争の結果を、ロシア・ドイツ・フランス三国の干渉によって放棄せざるを得ず、臥薪嘗胆が国民の合い言葉だったが、さらにロシアの極東での南下――清国(満洲)・朝鮮・日本の植民地化を狙った行動――が露骨になり、力の無い清国や朝鮮にかわって日本がロシアと戦う「日露戦争」が予感されはじめていた。

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 その日露戦争を資金面から支えるためには、外債発行が不可欠だったが、高橋是清は、伊藤博文など政府要人からその責任者になれ――との特命をうけ、獅子奮迅の活躍を開始する。
 その話は、また後に記すことにしよう。

(『高橋是清の青春』完)


 

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