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01.一 皇統「万世一系」の思想――明治憲法の第一条〈一〉
    一・一 「万世一系」という言葉
        伊藤博文たちの猛勉強
02.     『憲法義解』にある解説
03.     「万世一系」の語源
04. 一・二 『神皇正統記』の思想
        『神皇正統記』に見る「万世一系」の思想
05.       上記の続き
06.     「万世一系」と「三種の神器」
07. 一・三 『愚管抄』の思想
        『愚管抄』にある慈圓の見解
        〈天照大神〉のご命令
08.     第一の功績 蘇我入鹿の排除
        第二の功績 光仁天皇の擁立
09.     第三の功績 光孝天皇の擁立
10.二 〈うしはく〉と〈しらす〉の違い――明治憲法の第一条〈二〉
    二・一 二種類の統治〈うしはく〉と〈しらす〉
        明治憲法第一条の「統治」
11.     「国譲り」の物語
12.     二種類の支配があること
        〈うしはく〉の由来
13.     〈しらす〉の由来
14.     当てはめられた漢字
        井上毅の演説から
15.     まとめますと・・・

『明治憲法第一条(万世一系と統治)』08

◎第一の功績 蘇我入鹿の排除

 蘇我一族は、古代の伝説的な政治家・武内宿禰の子孫を名乗って代々天皇の近くに仕えていましたが、しだいに勝手なふるまいをするようになりました。
 とくに蘇我蝦夷は推古天皇、舒明天皇、皇極天皇の三代(第三十三代から三十五代)に仕えながら、人民を使役して自分の墓を生前につくり、天皇の御陵と同じ呼び方をし、天皇の位を狙うほどの横暴ぶりでした。
 さらにその子の蘇我入鹿も天皇きどりで、聖徳太子の子孫を亡ぼしたり、自分の邸宅や子供達を皇室と同じ呼び方にするなど、皇統を無視するような態度でした。

 これを心配したのが中臣鎌足で、皇子時代の天智天皇(第三十八代)と相談して、入鹿を亡ぼしました。父親の蝦夷も自殺し、ここに権勢をほこった蘇我一族は力を失い、皇統の危機が除かれました。
 中臣鎌足はその後、政治家として辣腕をふるい、朝廷のために尽くしました。
 この功績によって鎌足は、天皇から藤原という姓をたまわり、のちの藤原一族の祖となります。


◎第二の功績 光仁天皇の擁立

 第四十八代の稱徳天皇(孝謙天皇重祚)は、妖僧といわれた道鏡の専横を許した女帝として知られ、和氣清麻呂の箇所でご説明したとおり、生前からさまざまな事件が起こっておりました。
 やがて崩御されますと、皇嗣を定めておられなかったために、政争が起こりました。
 このとき、道鏡を排除し、老齢ではあっても天皇の座につこうという野心のまったく無かった光仁天皇を推挙したのが、左大臣藤原永手やその後継者の藤原百川(二人とも藤原不比等の孫)でした。
 光仁天皇は立場上天皇への野心が皆無の人だったため、渡来系とされる身分の低い女性の高野新笠をそばにおいていましたが、その新笠の子供が勇猛で知られる次の第五十代桓武天皇です。
 この桓武天皇をつぎの天皇とする手はずを整えたのも、百川だったと言われております(『水鏡』など)。

 天皇の系列は稱徳天皇までしばらくは天武系でしたが、光仁天皇は天智系であり新笠は皇族とは無関係な女性でした。
 したがって、この藤原永手・百川の運動によって、皇統は天武系から天智系に移りました。
 天智系には有力な皇族が多くおられ、稱徳天皇の時代のような皇統の危機はなくなり、女帝を立てる必要もなくなりました。

 奈良時代後半に起こったこの事件には、いろいろと事情もあり、簡単には言いきれないものがありますが、これ以後江戸時代まで女性天皇は存在いたしません。

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