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国際通信の日本史57

■□■□■ 第四章 明治十年代 電気産業の基礎を築いた先覚者たち ■□■□■


■■■ 四・一 電信網の発展とモールス符号の制定 ■■■


 まず、その後の電信線敷設状況を概観しておく。
 東京〜長崎回線が終わらないうちに工部省は、東京から北への回線を着工する。
 そして明治七年には東京〜青森〜北海道の電信回線が竣工する。
 北海道への回線は津軽海峡に海底ケーブルを敷設する必要があるが、最初のうちは大北電信に依頼し、明治二十三年以後は一般の船を改良して日本独自におこなった。
 この明治七年の津軽海峡横断に用いた海底ケーブルは、製造などはイギリスの会社だが、設計は工部大学校のエアトン教授だったとされる。
 日本の学生にケーブル設計法を教えたかったのかもしれない。

 さらに明治九年には、本州〜四国間の海底ケーブルも完成し、これで沖縄や千島などを除く日本主要部が電信で結ばれた。
 それからさらに日本海側などに枝を延ばして「電信網」という形で発展させ、明治十二年には北海道・本州・四国・九州のすべての地域をネットワークとしてカバーするようになった。この年の電信局の数は一一三に達していた。
 列強が予想したよりもはるかに速いスピードで日本の電信網は発展していったのだ。
 ちなみにこの時代の鉄道は、東京〜横浜、神戸〜京都間が開通していたが、まだ東海道のような長距離は先の話だった。

 電話は明治九年(一八七六年)にスコットランド出身のA・G・ベルがアメリカで発明し、その翌年には日本に入り、例によって日本人はひじょうな興味をもって研究し一部で試用したが、本格的に使うようになるのは明治二十三年以後のことである。
 また東京〜長崎間のような長距離通話ができるようになるのは明治後期から大正にかけてだし、海底ケーブルや無線を使っての国際電話は昭和に入ってからだった。
 電話は電信にくらべて長距離を通すのが技術的にとても困難だったからだが、このことから逆に、大正期までは電信が長距離通信や国際通信の花形であり、他に代替案のない貴重な通信技術だったことがわかる。

 明治九年の八月のことであるが、先に先覚者のひとりとして述べた榎本武揚が、ロシアとの外交経験などから、「日本〜朝鮮間」と「第二長崎〜ウラジオ間」の海底ケーブル敷設を主張した。
 これは五〜十年後になって、大変な先見の明であることが証明された。

     *

 つぎに、サービス技術の向上をすこし見てゆこう。
 日本の電信サービスの最初期に使われた機械はABC指示型のブリゲー電信機だったわけだが、これは時代の流れに沿っておらず、じきにモールス式に置き換えられた。
 とくに長距離は最初からモールス式だったらしい。
 すなわち、明治四年にイギリスから「モールス符号自動印字機」が輸入され、これを十月から使いはじめたのだ。
 またその後ほかの国からも輸入されるようになった。
 自動印字機とは、前述のようにモールス符号を巻紙に自動的に記入する装置である。
 いま考えると当たり前の機械のようであるが、当時としてはハイテク精密機械の代表であった。

[この節つづく]

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