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国際通信の日本史93

■□■□■ 第六章 明治二十七、八年
      日清戦争後の大発展と日本人のみによる初の長距離敷設 ■□■□■


■■■ 六・一 日清戦争の経過と電信事情 ■■■


 日本と朝鮮は明治九年に日朝修好条規に調印して、相互に自主独立国であることを認め、貿易を盛んにしようとしたわけであるが、清国は朝鮮は自国の属邦であると主張して譲らず、独立を認める日本と宗主権を主張する清国との間で軋轢が起こり、さらにこれに朝鮮の不凍港租借を狙うロシアとそれを警戒するイギリスなどがからんで、きわめて複雑な国際情勢となってしまったことはよく知られている。
 明治十八年、日清間にいったんは天津条約が成立したが、清国の野望は止まなかった。
 この時代の清国と日本をくらべると、国力からいっても軍事力からいっても清国がはるかに上であると思われていた。

 だから清国は、朝鮮半島の完全属領化やさらには日本の追い落としを狙って策動していた。明治二十四年にドイツ製の『定遠』『鎮遠』という世界最大級の軍艦を連ねて東京湾で示威運動をおこなったのもその策動の一つである。
 現在の中国が核ミサイルの照準を日本に向けて経済援助を強要しているのと同じ外交手法だといえる。
 明治二十年代の日本はまだ清国のような大きな軍艦は持っておらず、対抗するために超小型の水雷艇の活用を図るなど苦心惨憺していたことは、田中製造所の個所でも述べたとおりである。
 陸軍も、日本は清国の半分以下に過ぎず、経験もなかった。

 そのような時、日清戦争が起こったのだ。
 きっかけは明治二十七年五月の東学党の乱で、排外的な一種の新興宗教団体が朝鮮政府に叛乱を起こした。
 機会を狙っていた清国はこの機に乗じて、天津条約を一方的に破って、大軍を朝鮮に派遣し、半島の占拠を狙った。
 日本はこれに対抗して六月下旬に先遣部隊を仁川に上陸させる。そして七月、日・清・朝の外交交渉が決裂して戦争状態に入り、日本軍は京城を制することに成功する。

[この節つづく]

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