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01.三・一 〈八咫烏〉と〈三足烏〉混乱のはじまり
    日本サッカー協会への抗議
02. 著者の疑問と推理
03.三・二 〈八咫烏〉についての日本最古の文献
    日本最古の史書
04.  上の続き
05.三・三 〈八咫烏〉に関係する古い神社の由緒譚
    『八咫烏神社由緒書』(七〇五年創建)
06. 賀茂社について
07. 熊野三山について
08.  上の続き
09.三・四〈八咫烏〉 についての南北朝時代までの文献
    『新撰姓氏録』(萬多親王等/八一五年)
10. 『倭名類聚抄』(源順/九三〇年代)
11. 『讃岐典侍日記』(藤原顕綱の娘の日記/一一〇八年ごろ)
    『神皇正統記』(北畠親房/一三三九年初版とされる)
12.三・五 〈八咫烏〉についての江戸時代の書誌学的文献
    『新撰姓氏録』(萬多親王等/八一五年)
13. 『倭名類聚抄箋注』(狩谷エキ斎/江戸時代後半)
14. 明治の童話にある〈八咫烏〉
15.三・六 補足と著者の結論
    『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説の発端とは?
    辞書類の検討
16. 著者のとりあえずの結論

『八咫烏の足は果たして三本か』5

■■■■■ 三・三 〈八咫烏〉に関係する古い神社の由緒譚 ■■■■■


◆◆◆『八咫烏神社由緒書』(七〇五年創建)◆◆◆

 この神社は、『続日本紀』によりますと、文武天皇の慶雲二年九月(西暦七〇五年)に創建されました。
 西暦七〇五年といいますと、『古事記』の成立より前で、たいへんに古い神社であることがわかります。
 正史の『続日本紀』に記されているほどですから、由緒正しく格式の高い神社で、延喜式内社です。
 場所は、〈八咫烏〉が活躍した奈良県宇陀郡です。

 この神社の由緒書に、概略次のようにあります。

【土地の豪族の武角身命が、黒い衣をまとって木から木へと飛び移りながら神武天皇をご案内した。
 天皇はその姿をごらんになって、〈八咫烏〉という称号をおつけになった。
『八咫烏神社』のご祭神はこの武角身命である。
 その子孫は賀茂県主である。
 当神社の絵様には〈三足烏〉を使っている。】
(インターネット「玄松子の記憶」から)

 つまり〈八咫烏〉とは、黒い衣を着て道案内をした豪族が、まるで大きなカラスのように見えたので、天皇がおつけになった称号(綽名)である――としているのです。
 ですからもちろん人間で、かつ神武天皇の部下です。
 そして、その故事とは関連なしに、〈三足烏〉を神社のマークにしています。

 この由緒がいつごろから伝えられていたものか分からず、八一五年の『新撰姓氏録』から来たのかもしれませんが、少なくとも創建以来の口伝と矛盾するような事は書かないでしょうから、これに近い伝承があったのでしょう。
 また〈三足烏〉は、デザインとして、(おそらくは)鎌倉時代以降に出来たのではないか――と思います。
 黒い衣装の土地の豪族の足が三本あった筈はありませんから・・・!

 つぎに、〈八咫烏〉や〈三足烏〉に関係の深い、賀茂社と熊野三山の資料を簡単に記しておきます。

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