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01.三・一 〈八咫烏〉と〈三足烏〉混乱のはじまり
    日本サッカー協会への抗議
02. 著者の疑問と推理
03.三・二 〈八咫烏〉についての日本最古の文献
    日本最古の史書
04.  上の続き
05.三・三 〈八咫烏〉に関係する古い神社の由緒譚
    『八咫烏神社由緒書』(七〇五年創建)
06. 賀茂社について
07. 熊野三山について
08.  上の続き
09.三・四〈八咫烏〉 についての南北朝時代までの文献
    『新撰姓氏録』(萬多親王等/八一五年)
10. 『倭名類聚抄』(源順/九三〇年代)
11. 『讃岐典侍日記』(藤原顕綱の娘の日記/一一〇八年ごろ)
    『神皇正統記』(北畠親房/一三三九年初版とされる)
12.三・五 〈八咫烏〉についての江戸時代の書誌学的文献
    『新撰姓氏録』(萬多親王等/八一五年)
13. 『倭名類聚抄箋注』(狩谷エキ斎/江戸時代後半)
14. 明治の童話にある〈八咫烏〉
15.三・六 補足と著者の結論
    『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説の発端とは?
    辞書類の検討
16. 著者のとりあえずの結論

『八咫烏の足は果たして三本か』13

◆◆◆『倭名類聚抄箋注』(狩谷エキ斎/江戸時代後半)◆◆◆
(エキは液のシを木に代えた字です)

 狩谷エキ斎は、本居宣長ほどの知名度はありませんが、江戸時代最高の考証学者として聞こえた人物です。
 安永四年(一七七五年)生、天保六年(一八三五年)没で、本居宣長の四十五年のちの生まれです。
 裕福な江戸商人の息子として育ち、学問に精進して、とくに書誌学的方面に非凡な才能を見せました。

 業績の第一は度量衡研究で、『本朝度量権衡攷』は、正倉院はじめ全国を旅し、徹底した実物主義を貫いてできた著作とされ、今では平凡社の東洋文庫で見ることができます。
〈八咫烏〉の大きさについての考証なども有名です。

 業績の第二が、この『倭名類聚抄箋注』で、実証主義に基づいた、精緻を極めた考証によってできた、『倭名類聚抄』についての解説書です。
 本文より解説のほうがはるかに長い本です。
 活字印刷されたのは没後の明治十六年とされています。

 この中に、『陽烏(太陽に住む三足烏)』についての長い解説がありますが、そこで、〈三足烏〉と〈八咫烏〉の関係について、狩谷は次のように述べています。

【頭八咫烏者、天照大神為神武帝遣以為郷導之神烏也、古事記所載同、源君以為日中烏者誤矣。】

 源君とは源順のことです。
 つまり、『倭名類聚抄』に書かれた源順の『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説は誤りだ――と明記しているのです。
 本居宣長に匹敵するほどの考証学者が、やはり、

『〈八咫烏〉≠〈三足烏〉』

 ――と主張していることは、尊重すべきだと考えます。

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