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飛鳥・奈良時代

ここでは、継体天皇から平安遷都までの事蹟を扱います。

・概略 (2003/04/08)
・継体天皇の宮地1 (2003/04/16)
・継体天皇の宮地2 (2003/04/23)
・天皇(すめらみこと)の称号1 (2003/04/30)
・天皇(すめらみこと)の称号2 (2003/05/07)
・継体天皇期の治世 (2003/05/14)
・大伴、物部、そして蘇我 (2003/05/21)
・推古天皇の治世1 (2003/05/28)
・推古天皇の治世2 (2003/06/04)
・乙巳のクーデター前夜1 (2003/06/11)
・乙巳のクーデター前夜2 (2003/06/18)
・乙巳のクーデター後 (2003/06/25)
・天智天皇1−斉明天皇の時代 (2003/07/02)
・天智天皇2−大津宮 (2003/07/09)

・概略

この時代は、倭から日本へ変遷し、律令体制が確立した時期であり、強力な天皇権が天皇個人から有力豪族(有力貴族)を含めた集団に移った時期でもある。 その流れは後の日本の天皇制度を決定付けた変遷でもあろう。今日の象徴としての天皇はこの時期に確立された天皇権の制限が発展したものと考えられる。 一時的に強力な個性の天皇の出現があったが、概ね官僚による天皇権の制限が行われていたと考える。

武烈天皇の崩御に伴い継体天皇を迎え継体天皇の治世が始まる。この治世を通して力を付けてきたのが蘇我氏であり、 蘇我氏による天皇権の制限が始まる。蘇我氏が勢力を付けてくるに当たり、当然のことながら従来重きを成していた物部氏との対立は必然的な出来事であろう。 仏教受容問題における蘇我・物部の対立は、政治的な対立が仏教受容を口実として行われたと考えられる。この対立は用命天皇の崩御によりピークに達し、 蘇我・物部戦争へと発展する。

この戦役に勝利した蘇我氏は天皇家との血縁関係を利用し、推古女帝の治世から蘇我本宗家滅亡までの最盛期を築くことになる。 (推古女帝はわが国の歴史上初の弑逆事件を契機として誕生した。)しかし、中大兄皇子(後の天智天皇)による「乙巳のクーデター」により、 本宗家が滅亡してからは中央集権化を急ぐ朝廷の影響により、蘇我家内部の内紛が起こり、朝廷において余り振るわなくなる。

中大兄皇子は「乙巳のクーデター」ご直に全権を掌握し、実力者として振舞ったわけではなく、天皇位につくまでの間に徐々に力を蓄えていった。 しかし、その力は残念ながら死後影響力を及ぼすことなく、「壬申の乱」が発生し天武天皇へ統治権が移っていく。 (「壬申の乱」の発生は天智天皇の影響であると言えば、言えるかもしれない)

軍事力により権力を掌握した天武天皇は中央集権化を強烈に進めていく。が、存命中に律令を整えることは出来ず、 律令は大宝律令まで待たねば成らなかった。この天武・持統朝に後の藤原氏の礎を築く藤原不比等が頭角を現してくる。 この後、幾度かのせめぎあいの中で藤原氏は力を付けて行き、平安朝にてピークを迎える。

さて、この飛鳥・奈良時代の後期には「京」が出現する。それまでは天皇一代ごとに宮を作っていたが、藤原京以降は基本的に複数代の利用となる。 「京」とは宮室だけでなく、官僚たちが政務する役所(官衙)およびその居宅や市などを含んだものである。 当然その「京域」は膨大な場所を占有することになり、それ以前のように一代ごとに作るわけにはいかない。 そして次の時代の平安京は幾度かの荒廃を重ねながら王城として1000年続くことになる。(政治的な中心を意味するわけではない)

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・継体天皇の宮地1

継体天皇が長らく大和に入らなかったことで、数々の憶測を呼んでいる。その一つが「継体天皇と大和の豪族間の間で戦闘が行われたのではないか」と言う憶測である。結論から言ってしまえば、「判らない」である。まあ、千数百年の昔の事でもあり具体的な考古学資料や文献資料が出てきていない中で、判断するのは難しいであろう。継体天皇が宮を構えた地域の発掘が行われ、宮跡から木簡当の資料が出てくれば、具体的な推測が出来るのではないかと考える。ただ、現時点でも当時の状況の推測は若干可能であろう。

私は、大和が必ずしも宮地に最適であったとは思わない。時々の状況により、最適な場合もあり、不適切な場合も有ると言うことである。山々に囲まれた霊地と言う考え方としては妥当かもしれないが、行政システムを置くにはいささか不便では無いかとも思う。とくに、外交を重視する政策を執り行うには非常に不便である。なぜか、河内への出口が大和川しかないのである。北部に木津川が流れているが、それは宮地が飛鳥から藤原・奈良に遷った時点で有力な交通手段となる。もちろん、大和側支流が利用できるから外交を余り重視しないのであれば、余り問題にならないかもしれない。

この当事有る程度国内の拡張が終わり、内政と外交がともに重視されていたのではないかと考える。統治を行うためのシステム作りのために、外交がより重視されていたと言っても良いのではないだろうか。現在の関西程度の地域を統治するなら、それほどのシステムは不要だろう。しかし、東は関東から西は九州までを統治しようとすると、そうは行かない。統治機構の収入を安定的に確保しようとすればするほど、システムの必要性が出てくる。

この様な事を考えれば、継体天皇が水利のある場所に宮を作ったのが、大和に入れなかったわけで無く、交通システムとして使用できる大規模河川の周辺が、宮地として最適と考えたからであろう。また、出身地を考えれば、水運の重要性を肌身で理解していたと考えても良さそうである。(淀川は宇治川を経由して琵琶湖とつながっている。)古代は現代ほど陸上交通が発達していないため、大規模輸送には河川が有効なのである。陸上輸送が大規模輸送に絶えられるようになったのは、鉄道や自動車が出てきてからである。それでも、大規模な物資を運ぶには船を使ったほうが効率が良い。


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・継体天皇の宮地2

日本書紀に記載されている継体天皇の宮地は「三国」(越前)、「葛葉宮」(大阪府枚方市楠葉)、「山城国乙訓」(京都府乙訓郡)、最後に大和の磐余である。

ここに一つの鏡がある。その鏡は隅田八幡神社(和歌山県橋本市隅田町垂井622)が所持している人物画像鏡(裏面に人物像がデザインされている鏡)である。この鏡には

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟」

ここで、この鏡を持ち出してきたのは、この銘文が「百済の武寧王が継体天皇に贈った」と読める可能性が指摘されているからである。この場合、「癸未」は503年であり「斯麻」は斯麻王(武寧王)であると言うわけである。あながちこじ付け出は無いと思う。良く知られているように記紀には「百済の武寧王」が「斯麻王」と書かれている。この説が正しいとすると、即位前に継体天皇は意柴沙加宮(おしさか=忍坂)にいた事になり、記紀における宮地の信憑性が揺れる事になる。

ただ、この銘文の解釈にはいろあり、「王」の解釈をめぐっても定説化されていない。曰く「弘計(おけ)天皇」では無いか、曰く「允恭天皇」ではないか(この場合は「癸未」は443年としている)などなど。

一枚の鏡の銘文で、これほど混乱するわけである。異なる複数の資料があれば、さほど混乱する事は無いのだが、現在は相互補完する資料が存在しない。特に天皇家の系譜を否定したい人々にとっては、この資料が存在し無い状況は好都合なのである。

上記の「即位前に忍坂宮に継体天皇が居たのでは無いか」と言うのも基本的には、「大和王権が豪族連合である」と言う前提にたって論を展開している。しかし、現実には「豪族連合」であったとも「統一王朝」であったとも確証は無いのである。記紀に記載されている個々の状況が考古学の発展により、徐々に正しい部分があると証明されて来て入るが、それをもって、全てに間違いが無いとは言いきれ無いのである。が、戦後一時期を風靡した「津田史学」の前提が崩れてきているのも事実である。

さて、「継体天皇の宮地」として二回続けたが、未だ宮地に付いては確証が得られていない。ただ、継体天皇が越前・近江を拠点とし河川を利用したネットワークを即位前に築いては居たようである。こう言った宮地の発掘が進めば、何がしかの情報が更に得られることと思う。


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・天皇(すめらみこと)の称号1

天皇号が何時から使用され始めたかに付いては二通りの説がある。一つは津田左右吉が唱えた推古朝説、もう一つは近年主流となっている天智・天智朝説がある。推古朝説の論拠は推古天皇16年条の記述と法隆寺金堂薬師如来像の背面にある銘であるが、これが怪しそうなのである。もっとも、津田左右吉氏には失礼であるが、私は氏が唱える事に付いては常に疑問符付きで見るようにしている。

重要な点は中国が天皇号を使用した時期があったと言うことである。いつか。それは唐の高宗元年(674年)である。この時代、日本から遣唐使も派遣されており、日本の国情に付いては唐はある程度承知していたであろう。国号が「倭国」から「日本国」に変更されたことが記録に残っており、君主号が何を使用していたか当然承知していたと考えて間違いはないだろう。

そうした事を考慮すると、唐が蛮夷と考えている国が使用している君主号をわざわざ使用するであろうか?唐が「天皇」号を使用したのは道教思想からであるが、どうしても使いたいからと言っても従来から使用している「皇帝」号を変更するにあたって、蛮夷と考えている国が使用している君主号を使用するとは考えがたい。

「中国が使用した」と言うこと以外に否定的な論拠はないであろうか?実は聖徳太子が制定したと言われている十七条憲法が一つ。ここで、「王臣」が使用されている。次に天皇を尊ぶ思想的背景である道教が政治中枢で使われるのが天武朝以降なのである。

尊称を変更する場合、従来の尊称より新規の尊称が優越しているという思想的背景がなければ、変更は行われない。これは、「王」が「皇帝」に変更された中国の状況を見ても明らかである。「王」が「皇帝」に変更されたのは各地に「王」を僭称する君主ばかりとなり、「王」が全土の統治者として意味の軽い物となってしまったためである。そこで、三皇・五帝を併せて「皇帝」という尊称を作った。

では、「天皇」が明白に「王」より優越した尊称であると言う認識が推古朝当時に有ったのであろうか。私はなかったと考える。当時は、どの思想よりも仏教思想が優越を利かせていた。そして、それ以外では中国の政治制度を取り入れようと躍起になっていた。こうした所を考慮すれば、思想的背景が存在していなかったと言えるのではないだろうか。尊称を変更するのであれば、「帝」「皇帝」などが考慮されるのではなかろうか。


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・天皇(すめらみこと)の称号2

前回に続いて天皇の称号であるが、皇帝は「三皇・五帝」であるが、天皇は何だろうか。天皇は道教の「天皇大帝」から取られたという事は周知の事実である。この道教思想が政治の世界に入り込んだ時期は不明ながら、この思想に被れたと言うか有効利用した天皇は天武天皇である。

天皇号のみならず、位階・姓にもその思想が反映している。が、天皇号に限っていえば定着したのはだいぶ後のようである。どちらかというと、「帝」「皇帝」などが使用されている。例えば、「天皇紀」でなく「帝紀」と書かれていたり、元明天皇が崩御される際に出された勅に「皇帝摂断万機一同平日」とある。などなど。

記紀における「帝」の使用は枚挙に暇がない。こういうところから考えると、「大王」→「天皇」と一足飛びに移ったのではなく。中国と同様に「大王」→「皇帝」(皇帝・帝・帝皇)→「天皇」と変遷して来たのではないだろうか。中国では「王」→「皇帝」→「天皇」→「皇帝」と最終的には皇帝に戻っているが、わが国では両方が使い続けられた可能性があり、近年(明治以降)になって初めて「天皇」の称号のみとなったのではないだろうか。

それにしても、後々まで「帝」と言う文字を「天皇」の変わりに使うケースが多い事を考えれば、定着したのは何時ごろなのだろうか。今はまだ全ての資料を読んだわけではないので、断言するまでには至らない。今後、史書を調査していく過程で定着の時期を見極めて行きたい。

さて、天皇号に若干こだわった記述を続けてきたが、私自身は、実は天皇号に対してこだわりは少ない。歴史学的にはある主の重要性を含むのだろうが、天皇号であろうと皇帝号であろうとたいした問題ではない。ただ単なる呼称であり、王権を主催する者のラベルと考えたほうが良いのかもしれない。

どう言う事かと言うと、「天皇」号それ一つで当時行われた政治が変化するわけではないのである。「天皇」や「皇帝」を称する「大王家」が政治を執り行った事に変わりはないからである。あまり、「天皇号」に拘り過ぎると歴史の流れが見えなくなる。

天皇号の開始と定着は歴史事象のなかの一時期の一つであり全てではないわけである。


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・継体天皇期の治世

継体天皇の治世をその即位からざっくり眺めてみよう。継体天皇の前の天皇である武烈天皇は子をなさずに崩御された。これにより、実力により王位を継承する有力な王族が大和の中で途絶えた。大和の中に王族が全く居なくなった訳ではないだろうが、雄略天皇のように力で勝ち取ろうとした王族が居なかったのは事実であろう。それゆえに、大和王権を構成していた豪族による大王の推戴が可能になったと考えられる。この事が、その後の王権の変質をとげるきっかけとなったであろう。

内政に置いては、それほどの変化があったとは思えない。もちろん、推戴を受けた大王が強大な権力を振るえるわけではないので、王権は自然と合議制への道を歩む事になったであろう。この中で武烈天皇の時代に引き続いて王権内で大伴氏の勢力が強かったのであろうと思われる。

外交であるが、中国への遣使は478年を最後に途絶えており、朝鮮半島がその外交の中心となる。しかも、百済・加耶諸国との外交となっている。これら二国からは軍の提供(軍事援助)を要請され朝鮮半島への倭の影響力を強めていく。軍事援助の見返りに半島諸国は国家形成に必要な知識を日本に対してよこしてくる。この知識は継体朝の王権を強めたことであろう。当然、こうした王権強化の動きは他方で王権への離反を招く。

半島では百済と新羅が勢力を伸ばしてきており、それらから任那地区を防衛するために軍事的介入を強めていく。ただ、この事が、新羅の策動により継体朝最大の反乱「磐井の乱」へつながっていく。ただ、新羅の策動だけでなく上述の王権への反発も乱を引き起こす根源となって居るのは間違いないとおもう。

さて、この乱を鎮圧した継体朝は朝鮮半島の文物に対する独占ルートを確立し、より王権を強力なものにしてゆく。なお、王自身に帰する権力強化ではなく、大和王権全体の王権強化であるのはいうまでもない。

さて、その治世の締めくくりとして、王位の継承の事を書かねばならないが、良くわからないのである。日本書紀と古事記の記載に違いがるのと、崩御の暦年も異なっている。また、不思議な書かれ形をしており、政治的混乱(内乱?)があったようにも伺える。しかし、明確な資料がないのでこの件に付いては今後の課題としたい。

総括として、継体朝は雄略・武烈朝と欽明・敏達朝をつなぐ中継ぎといえるだろう。大王が専断する治世から、群臣の合議制へと移っていくのである。


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・大伴・物部、そして蘇我

継体朝実現の演出者である大伴氏は古くから天皇家の武門を握る一族である。その出時は日向時代まで遡り、もう一方の武門の勇である物部氏よりも古い。物部氏は神武東征時に帰順した勢力である。先ずは大伴金村氏に付いて少し。

大伴金村が国政において中心的な役割を果たす切っ掛けは、武烈天皇の太子の時代に遡る。仁賢天皇が崩御され、平群真鳥臣が国政を専断が始まった。平群一族は太子にまで無礼な振舞をしたため、太子と平群一族の間に溝が出来た。この機会をすかさず大伴金村は捉え、太子に平郡を討つ事をすすめ、太子と金村で平郡を討つ。ここから、大伴一族にとって良い時代が始まった。

しかし、継体朝で任那の4県を百済に割譲した事が、その後の半島経営の足を引っ張り、欽明朝で失脚する事になる。武烈天皇から継体・安閑・宣化・欽明朝が大伴氏の絶頂期であった。実際は武烈天皇から継体天皇が崩御されるまでの間だろう。次に台頭して来たのが物部氏である。

欽明・敏達朝における実質的な実力者は物部氏であった。蘇我氏は未だ物部氏と対等に接するほどの実力はなく、実力を蓄えている途中と言うところであった。代表的な例で言えば、欽明朝に置ける崇仏論争であろう。時代の趨勢から仏教それ自体を無視するわけにはいかなかったが、旧勢力との兼ね合いから蘇我氏の身の崇仏を許可した。しかし、疫病がはやるとあっさり物部氏による廃仏が認められてしまう。

だが、蘇我氏は皇室との婚姻関係と仏教受容により着々と勢力を伸ばしてゆく。押しも押されもせぬ実力を蓄えたのは、馬子の時代である。敏達天皇の崩御に伴い皇后の言葉が重みを持つようになると、国政における蘇我馬子の発言は重みを増す事になった。この時の皇后が後の推古女帝であり、馬子とは姪と叔父と言う関係である。

そして、次の天皇である用明天皇も蘇我系の天皇であり、この事により勢力を必然的に重みが出来た。相対的に物部の影響力が低下して行き、用明天皇の崩御に伴い次代の天皇を決めるにあたり、物部・蘇我の対立は頂点に達する。この結果、物部対蘇我・大王家・豪族連合の戦闘になり、物部の敗退により蘇我に対抗する勢力はなくなる。

ところが、蘇我に対抗する勢力の不在が、蘇我の専横を許し、その結果、大王位を脅かすほどになるのだが、この事が蘇我本宗家を滅亡に導く事になる。


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・推古天皇の治世1

推古女帝は崇舜天皇弑逆事件を受けて登場する。この混乱は用明天皇の短命な治世の影響による。通常の天皇と同じように治世が永ければ推古女帝の登場はなく、代わりに厩戸太子が天皇になっていたかどうかは不明である。用明天皇が長命の場合に蘇我・物部戦争が起こったかどうかが不明なためである。いずれにしても、この時期はわが国の行く末を有る程度決定づけた一つである。

蘇我系の女帝の登場は蘇我本宗家及びその一族の権勢基盤の安定化に役立った。この時期は、大王家対蘇我とするのではなく、共同で統治したと言うのが正しいだろう。その時代を担った一人に厩戸王子、いわゆる聖徳太子がおられる。しかし、聖徳太子に付いては、その死後の早い時期に伝説化したと言うのが通説である。まあ、これに付いては通説が正しいだろう。上宮王家の滅亡が聖徳太子伝承を発生させる要因になったのではないだろうか。上宮王家一族完全滅亡と言う、この時代には珍しい事が原因と考える。

さて、推古女帝の治世には上記で書いた聖徳太子が重要な役割の一端を担う。冠位十二階・憲法十七条・「天皇記・国記」等の制定や編纂である。冠位十二階が制定されたのは日本書紀や隋書に記述があるので制定は間違いないと思われる。但し、当時の中国のように、中央集権官僚体制を示すものではなく、豪族の序列化に過ぎなかった。もちろん冠位は個人に与えられたので、昇進も可能となったが、後の律令体制のようなものではない。そのようなものであれば、蘇我馬子は制定させなかったであろう。

それでは、憲法十七条はどうなのであろうか。この時期に制定されたかどうかは不明である。現在、それを示す木簡等の資料がないので、確実に制定されたとは言えない。しかし、それに類するものが制定され、上宮で施行されたかもしれない。

「天皇記・国記」はどうであろうか。発議や編纂の開始が行われたことは間違いないだろう。そして、それが日本書紀の下地になったであろう事も。ただ、推古女帝の時代に完成したかどうかは疑わしい。国内の手本もなく一から整合性を取りながら編纂するわけであるから、かなりの時間が必要であろう。そして、蘇我本宗家の主導で進められたのも間違いない。これは、蘇我本宗家が滅亡するときに、蘇我本宗家の屋敷内に有ったと日本書紀に記述されている。この時に焼け残ったものが日本書紀の下地になっている。


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・推古天皇の治世2

内政に付いては既に取り上げたので外交に付いて検討して見たい。この時代の外交として倭王武以来の遣使が派遣される事になった。内政が有る程度落ち着いた事もあろうし、統治システムの変革を迫られていたのかもしれない。また、半島に対する政策として、大国に大国であると認定してもらう必要があったかもしれない。

さて、この時期大陸では589年に約300年ぶりに統一王朝が出現する。「隋」の出現である。これを受けて、半島各国は隋への朝貢を行う。百済が589年、高句麗が591年、新羅が594年である。日本は600年である。この最初の遣隋使は日本書紀には記されていないが、東アジアで最後の入隋なのであまり歓待されなかったのであろう。

七世紀に入ると半島情勢が緊迫してくる。ことの起こりは高句麗が598年に遼西侵略を行った事による。これにより隋は自身を崩壊させる事になる三度(611・613・614年)の高句麗遠征を行う事になる。最初の入隋では状況が芳しくなかったが、607年の入隋では隋使を引っ張り出す事に成功している。ただ、有名な国書により隋の煬帝は芳しい思いは抱かなかったが。日本側は隋と対等に立とうという意識はなかっただろうと思われる。ただ単に外交文書の礼儀を知らなかっただけであろう。なぜなら、隋書には使節が朝貢の姿勢を示し、隋の制度を学ぶ事が目的と書かれている。(対等なら学ぶ必要も無いであろう)

無礼な国書に対して、なぜ隋は使者を派遣したのであろうか。これには少し事情がある。上述の高句麗遠征に絡んでである。当時日本は新羅を除く半島国家に朝貢させる事に成功していた。(600年の段階でである)高句麗と日本が同盟関係を結び敵対する事に警戒感を抱いたためであろう。600年の入隋時点から各種の情報収集も行ったであろう。大国を自任する自国以外に朝貢を受ける事が出来る日本に対して無視する事が出来なかったわけである。それらの状況が複雑に絡んで使者の派遣となったのだと思う。偵察と遠征の障害にならないように外交を行うためだったのだろう。

無礼な国書を奉じた割りに良い待遇を受けたのは、上記のような事情が有ると考える。

そこら辺りの事情を理解し、半島情勢に対して有利に展開できたかは定かでは無い。ただ、新羅はその様に受け取ったようである。611年新羅・任那の朝貢使が来日している。それでも念願の任那日本府が復興されなかったが。


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・乙巳のクーデター前夜1

乙巳のクーデターとは大化の改新の引き金となった事件で有る。権力者の蘇我本宗家から見れば謀反事件で有る。大化の改新につては別途項を改めるとして、クーデターに至る過程を少し見つめて見たい。クーデター事件の延引は、推古朝の主要メンバーが舞台から退場するところまで遡らねばなら無い。推古女帝が崩御されたとき古代の一時期を構成した蘇我馬子・厩戸太子そして推古女帝の三人全てが世を去っていた。この事が乙巳のクーデターの遠因となる。

時代の登場人物は蘇我蝦夷・入鹿、山背大兄王子(厩戸太子の子)である。推古女帝が崩御されるときに山背大兄王子と田村王子に遺詔を下した。この詔をめぐって朝廷が紛糾する事になる。田村王子優勢と言うような詔であった。馬子が生きていれば、朝廷は不満分子を抱えながらも纏まったであろうが、蝦夷はまとめ切れなかった。また、厩戸王子が生きていれば間違いなく王子が即位したであろうが、全ての支持を受けるほど山背大兄王子に人望が有ったわけではなかった。この事が山背大兄王子に恨みを残す事になる。また、この時、山背大兄王子を後援していた境部臣摩理勢一族(蘇我馬子の兄弟)を殲滅してしまう。

蝦夷が蘇我家すらも纏め切れなかった事により、本宗家は蘇我氏内部で孤立する事になった。舒明天皇(田村王子)は求心力を若干強めたようである。さて、舒明天皇が崩御すると、推古女帝崩御の時と同じ問題が起こる。古人大兄王子(舒明天皇の王子)と山背大兄王子が候補になっていたが、どちらが皇位に就いても問題が起こる状況だったので舒明天皇の皇后の宝皇女いわゆる、皇極女帝である。この間、蘇我本宗家は政治的に孤立したわけでは無いので、朝廷に対する影響力は蘇我氏絶頂の時代となる。

しかし、大王位選定からもれた山背大兄王子は、その後も大王位を諦める事無く運動を続けたようである。それが、蘇我入鹿の気に障ったのだろう。複数の豪族及び王子達と語らって、斑鳩宮(山背大兄王子の宮で上宮王家の拠点)の襲撃を行う。これにより、上宮王家は滅亡する。だが、この襲撃が周到に根回しせず入鹿独断で実施されただけに、蘇我本宗家に対する反発が高まる事になった。蘇我家が一本に纏まっておれば防げたであろう悲劇が開幕する事になる。


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・乙巳のクーデター前夜2

前回は、上宮王家が滅亡したところまで書いた。この、上宮王家への蘇我入鹿独断の襲撃を蘇我蝦夷が批判しているのが日本書紀に見える。また、上宮王家を失った事が蘇我本宗家の悲劇を招き寄せたと見るきらいも有る。しかし、本当にそうなのであろうか。どちらか言うと、上宮王家は蘇我本宗家にとっても大王家に取っても目障りではなかったのだろうか。

この当時、奈良・平安時代に比べて、大王の長子相続は確立されておらず、世代と能力とを勘案して大王に推戴されていた。世代としては山背大兄王子は有力候補であったのだが、能力が有能と認める向きが少なかったのではなかろうか。厩戸王子の時代に懇意を持った氏族が後援していたのに過ぎず、バックアップする有力豪族が少ないのは他の豪族も無能と思っていたのだろう。

だから、上宮王家の滅亡は大王家自身にとってもメリットがあり、後継問題においてのゴタゴタの一つが片付いたと考えられないだろうか。そのため軽王子(孝徳天皇)も参加していたのだろう。ただ、蘇我家内部では受けが悪かったのでは無いだろうか。

さて、乙巳のクーデターで大きな役割を果たした、中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足であるが、まあ、日本書紀の記述に付いては誇張があるとしても、謀議を凝らしたのは事実であろう。ただ、両者を引き合わせたのが誰であったのかは不明だが、僧旻辺りが紹介したのかもしれない。

中大兄王子と中臣鎌足は実行部隊であり、日本書紀で語られるような劇的なものではなかったのでは無いだろうか。孝徳朝において、あまり目立った動きが出てこないのである。では、乙巳のクーデターの本質は何なのであろうか。蘇我本宗家の専横が問題だったのではなく、後継者問題ではなかったであろうか。この時点で軽王子と古人大兄王子が候補として存在する。

そして、大王家や蘇我本宗家以外は軽王子を後継者として考えていたのではなかろうか。そのためには、蘇我本宗家が邪魔になる。専横と考えるには、蘇我本宗家の行いは「大王家の身内」の行いとしては問題になる程のものでは無いと思う。状況証拠として日本書紀が上げているようなことは、皇帝として立つ事を蘇我本宗家が考えていたと言い切る程のものでは無いだろう。

それと、大王中心の律令国家を築かねばなら無いのは、蘇我本宗家にしても中大兄王子にしても共通して考えていたことだろう。僧旻が中臣鎌足に語ったことからも、蘇我入鹿がそのあたりを理解していたと考えられる。そう考えると、後継者問題により攻撃されたと考えるのがすっきり行く。

つまり、蘇我本宗家は舒明天皇即位時に境部臣摩理勢一族を攻撃した時と同じく、今回は孝徳天皇即位のために攻撃されたのではなかろうか。


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・乙巳のクーデター後

蘇我本宗家を滅亡(蘇我家が族滅されたわけではない)を受けて、日本史上最初の譲位が行われた。それまでは、そして現在も大王位または天皇位は崩御によって次代に継がれる。が、皇極女帝がこのクーデター事件を受けて退位され、軽王子(孝徳天皇)に大王位を譲られた。スムーズに事が行われているので、既定の事実だったのだろう。

日本書紀においては、中大兄王子(天智天皇)がこの「乙巳のクーデター」によって、権力を掌握したかのような書き方がなされているが、この点に付いては疑問がある。なるほど、クーデター実行者として、それなりに尊重はされただろうが、そこまでだろう。即位を辞退したのではなく、即位するだけの実力が無かったと考えるのが適正だろう。

同世代相続がまだ一般的であり、軽王子(孝徳天皇)が即位したのも他に有力候補が居なかったからであろう。古人大兄皇子は蘇我本宗家のバックアップが無くなったために候補からはずれ、中大兄王子には有馬王子と言う対抗馬が存在していた。軽王子と中大兄王子とは一世代差が有る。軽王子を押しのけて即位するには十分な実力が無かったということだろう。

さて、即位した孝徳天皇は中央集権を目指して改革を行う。「改新の詔」は書紀への記載に際して、修飾や潤色が行われているので、どのような文面が本当であったかは現在通説が無い。

それと、書紀では孝徳朝の初期に改革が行われた事になって居るが、どうやら、重要な改革は難波宮造営(649年)の辺りからと考えたほうが良さそうである。重要な改革は官位の制定(649年)と立評(649年)が上げられるだろう。

官位の制定は647年にも行われているが、左右大臣がこれに従わなかった。その左右大臣の死亡に伴って、再度、官位が制定された。特徴としては、下位の位階を細分化し官人への取り込みを広範囲に行えるようにしている。また、左右大臣に気心の人間を据えた事で、制定した官位に反対するものは無かったようである。

立評は全国的に評制をの行を目指したものである。もちろん、全国が一気に評制に突入したわけではない。しかしながら、評制により地方を掌握しようとしたのは間違いない。国造の「国」を一つの評とし、それを再度分割する事により、地方の力を弱め、中央統制を強めるという手法である。

だが、これらの改革を性急に行おうとした為、多数の反発をうけ、中大兄王子を始めとして大部分が飛鳥へと引き上げてしまう。孝徳天皇に支持勢力があれば、こう言ったことは防げたであろうが、中大兄王子側の勢力の方が大きく、改革は挫折する。


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・天智天皇1−斉明天皇の時代

いきなり、天智天皇と 言うのもなんだが孝徳天皇の後は天智天皇(中大兄皇子)が政治の中心であったと言う事に日本書紀ではなっている。孝徳天皇は失意の内に世を去るのであるが、本当にそうだったかどうか疑問がある。改革においてゴタゴタは有っただろうが、取り合えず今後の検討課題としたい。

さて、大和に遷都した倭政権は孝徳天皇の崩御を受けて、新たな大王を立てる事になる。ここで、二つ目の前例が出来る事になる。斉明(皇極)天皇の即位により譲位した天皇が再び天皇位に就く事になる。これも、譲位と言う皇位継承が行われたので実現した。この事が後の世に院政という事態を招く一旦となる。これは後に書く事になるだろう。

さて、中大兄皇子が本来は皇位に就いても良さそうである。が、就けなかった。競争相手として有馬皇子の存在である。皇位継承のゴタゴタを避ける為に斉明(皇極)天皇の即位となったのだと私は考える。

さて、斉明天皇であるが評判が悪い。大土木工事のためである。中大兄皇子の対抗馬である有馬皇子の謀反の罠にも使われている。しかし、本当にそうなのであろうか。

難波宮に比べて飛鳥地区の開発はなされていなかった。蝦夷や百済使を難波宮で饗応している(斉明一年秋七月)所からみると飛鳥板蓋宮は、そのような事が出来るほどの物ではなかったのであろう。その結果、飛鳥の大開発が開始される。都作りである。難波宮の時点から役所等の施設が宮に包含され始め、京を形成し始めている。そういった意味で難波宮は後の藤原京・平城京の萌芽と言って良いかもしれない。飛鳥地域をその様に改造しようとしたのであろう。

その結果、建設されたのが後岡本宮である。飛鳥浄御原宮はこの後岡本宮を核とし拡張する事によって建設されたところから見て、それなりの規模と構成で有ったと考える事が出来る。日本書紀に悪く書かれているように難工事であったのだろう。

この事から考えても、中大兄皇子が当時即位できる程の力をもっていたとは考えにくい。どういうことかと言うと競争相手さえいなければ、これほどの権力を天皇はふるえるのである。つまり、天皇に対する制約を行うのは、天皇に匹敵するほどの力を持った豪族で無い限り難しい。そう考えると中大兄皇子が制約されるのを嫌い天皇位に就かなかったのではなく、就けなかったのではなかろうか。

ところが、百済危機で斉明天皇が病死(老衰か?)する。再び混沌とする事になる。


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天智天皇2−大津宮

白村江で唐・新羅連合軍に敗れた大和政権は大津宮に遷都する事になる。さて、何故大津なのだろうか。確かに飛鳥は一山越えれば難波に出られる。が、大津は淀川から宇治川を経て琵琶湖に入る事が出来るし、日本海側からの交通路も整備されている。防衛という条件では飛鳥と変わらない。逆に、朝鮮半島から近い大津の方が防衛と言う条件を考えた場合不適切な土地である。また、飛鳥防衛を捨て去っているわけでなく、高安城を作っている。従来、この城は防衛拠点と言われていたが、城が廃棄されたのが大宝元年(701年)である。(続日本紀・巻二・八月二十六日条)城が築かれた目的は唐・新羅に対する脅威ではなかろう。

大津に宮を築いた事に対しては諸説入り乱れているが、実際の所は心機一転と大津の開発が目的ではなかっただろうか。それにより、政権の財政と政治の安定を狙ったのでは無いだろうか。そして、何れは飛鳥に拠点を戻す事を考えていたのではなかっただろうか。そう考えれば、継続して飛鳥の整備を続けていた事が理解できる。従来、遷都した場合、遷都前の地域は打ち捨てられ、何らかの目的が無い限り整備はされない。難波の宮も外交拠点としての目的があったから、有る程度維持されてきたのである。

さて、この大津宮に置いて、其の後の律令制の下地となる、「庚午年籍」の作成が行われる。恐らく、是が日本最古の戸籍となるだろう。戸籍の目的は徴税作業のために他なら無い。これに付いては、今も昔もなんら代わりが無い。ただ、戸籍は小まめに修正しないと現状と異なるようになって来る。そうした、行政システムの構築に手を染めはじめたのが大津宮の時代と言って良いのでは無いだろうか。

ただ、大津宮の時代に律令が整備されたとは思わない。多分、大宝律令が最古の律令になるのでは無いかと思われる。なぜなら、律令の整備となると人員等役所の整備が不可欠なのであるが、そのような具体的な記述が見えてくるのは、大宝律令の編纂からなのである。(続日本紀 巻一・文武天皇四年六月十七日条)

律令の整備に取りかかろうと下が、果たせなかったと言うところでは無いだろうか。

天智天皇の治世10年間は律令制時への準備期間であり、その成果を次代に受け継がせようとしたが、皇位継承として長子相続が定められていなかったことが、古代日本史上最大の内乱を招く事になる。壬申の大乱である。


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