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飛鳥・奈良時代2

ここでは、継体天皇から平安遷都までの事蹟を扱います。

・壬申の乱 (2003/07/16)
・天武天皇の治世 (2003/07/23)
・藤原京 (2003/07/30)
・大宝律令 (2003/09/10)
・平城京の建設 (2004/03/03)

・壬申の乱

天武朝に於いて壬申の乱が重要なものであった事は、日本書紀の構成からも伺える。わざわざ一巻を割いて壬申の乱を記述している事からも想像出来よう。飛鳥・奈良を考える上で、また古代律令制度の成立を考える上で、この壬申の乱は一つの区切りを示すものと考えられる。この戦いに勝利したからこそ、王権の強化が達成され、後の律令制定への力と成るからである。

この壬申の乱は皇位継承争いである。この乱が発生した事は、その後確立された「皇位が嫡男へ継承される」という事が確立していなかった事を示す。同世代相続と次世代相続の対立と取ることも可能であろう。この乱により、皇位継承システムが確立されたかと言うとそうではなく今しばらく時を置かねばなら無い。完全に確立するのは、平安時代に入ってからである。

さて、この乱は大海人皇子が吉野を出立する事により開始される。どちらか言うと大海人皇子の側が綱渡りの連続であった。しかし、東国への脱出と「不破の関」を抑える事に成功した事により、戦いの帰趨は大海人皇子に傾く。

近江朝側が指を咥えて見ていたわけでなく、兵力動員を進めたが、大海人皇子側と違って兵力の動員がうまく進まなかった。豪族レベルでは双方とも同程度の兵力であったが、国単位の動員が近江朝廷側に不利に働いた。大海人皇子側は兵力動員の拠点(国郡の政治中枢)を押さえてから兵力動員を行った為、スムーズに動員が行えた。また、大海人皇子が東国と懇意であったのも有利に働いただろう。

しかし、近江朝廷側は兵力動員の勅使を派遣するも、東国へは「不破の関」を押さえられた事により派遣する事が出来ず動員に失敗する。また、西国は大海人皇子に心を寄せる国司や長官がサボタージュにより兵力動員を妨げた。

だが、大海人皇子側も始終有利に闘いを進めたわけでは無い。倭京では近江朝廷側が有利な状況がたびたびあり、不破の関よりの増援がなければ敗退していたし、主進撃路でも何度も陣を立て直す必要に迫られた。最後の戦場である瀬田では、近江朝廷側の死力を振り絞った抵抗により「あわや」と言う場面もあった。

しかし、最終的に瀬田と倭京で大海人皇子側が勝利した事により、近江朝廷側の敗北が決定的と成り、大友皇子の自殺、左右大臣の捕縛により壬申の乱は終了する。

この乱により大海人皇子(天武天皇)は絶対的権力を確立し、その後の改革を可能と成らしめる。また、この乱により旧来の豪族の力が弱まった事も見逃せ無い。


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・天武天皇の治世

壬申の乱により、強大な権威と権力を手に入れた大海人皇子(天武天皇)は各種改革に手をつける事になる。逆に言えば、壬申の乱により中央豪族の勢力が後退した事により可能となったと言えるだろう。目指すものは律令制度。しかし、残念ながら天武天皇の生存中には完成されなかった。律令制度が完全に整うのは大宝年間まで待たねばなら無い。

律令国家への過程で行わねばならなかったことは、中央豪族の勢力をそぐ事と地方の掌握である。この二点の視点から実施されたのが、「部民制の廃止」と「大舎人の創設」である。

「部民制」とは中央豪族が王権内で各種職務を分担する為の収入源として認められていたものである。この制度により、王権内で安定した活動が可能であったが、反面、中央統制が豪族により歪められてしまう。そこで、律令国家の直接統治を進めるために「部民制」を廃止し、その代わり「食封」を与える事にした。

「大舎人」とは官人が一度は通らねばなら無い関門である。試験制度ではなく、雑務経験を積む部署と言うか役所と言うものである。この「大舎人」を経ないと官人として出仕する事が出来ない。地方豪族の子弟にも出仕が認められており(出仕が認められたのは676年で最初からではない)、地方豪族を中央官人として取りこむ事が可能となっている。また、恣意的な運用で中央豪族を官人として出仕させないような事も出来る。

例えば、藤原不比等が官人として出仕したのは割合遅く、「大舎人」でかなりの期間過ごしている。同属の中臣億麻呂が割合早く「大舎人」から官人として出仕している事を思えば、よほど藤原鎌足は天武天皇から近江朝官人として恨まれていたのだろう。不比等が官人として上位に登ってゆくのは持統朝以降の事になる。そこでは、同属の中臣億麻呂との逆転現象が発生している。

また、「評価制度の確立」や「姓の改定」(八色の姓)なども実施されている。これらにより、官僚制度の確立を図り、律令制度への移行を行おうとしたと思われる。

さて、中央官制の整備とあいまって、それら官人を収容する施設が必要となってくる。それら全てをひっくるめての「京」の造営は「藤原京」の造営まで待たねばなら無い。しかし、現実問題として施設は必要なのであり、短期間で造営されたのが「浄御原宮」である。「浄御原宮」は「後岡本宮」に増築して形成されている事は、発掘調査などで判って来ている。が、東南部分を増築した歪な形であり、使い勝手が良くなかったのか、新たな政権として権威を示す為か不明だが、わが国最初の「京」が造営される事になる。「藤原京」である。


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・藤原京

日本最初の坊条制の京域を保有するのが藤原京である。この都を若干考査して見たいと思う。後の平安京へ続く都のデザインは平城京が出発点になるのだが、藤原京が当時の官人に与えた影響は非常に大きい。その前に、若干藤原京のデータを上げて見る。

藤原京は天武朝の676年(天武五年)に「新城(にいき)」と言う名称が登場する。この後の記述(この後、「新城」という語が度々登場する)から考えて、天武天皇が682年(天武十一年)に御幸された、「新城」と同じであり、684年(天武十三年)に宮の地を定めた場所と同じであろうと考えられる。そして、建築が開始され、天武天皇の崩御で一時中断するも、694年(持統八年)の遷都となる。

藤原宮の大きさが東西928メートル、南北907メートルで従来よりかなり大きい。また、それを取りまく形で京域が構成されており、従来の都と違った方針で整然と設計されたと考えられている。従来は官僚を収容する建物は有ったが、最初から設計されたわけで無く、ばらばらの状態であった。この官 衙を宮に収容した。

京域は官人の住居として作られている。このために京域を造ったとも考えられる。住居は官人の位階に応じて与えられ、この結果、官人は本願地から切り離され律令体制の官僚へと名実共に組み込まれていく。従来は通常は本願地に居住し、必要なときだけ宮に出仕すると言う状態であった。

さて、平安京へ続くデザインではないと記述した。何が違うかと言えば、宮の位置なのである。平城京以降に作られる都は、宮が都の最北に位置する。大陸の都城はそのような構成になっており、平城京はそれらをモデルとした模様である。藤原京では宮の位置が都の中心部に存在している。どうも、「礼記」に記載されている王城をモデルとしたようである。

もう一つ藤原京の意義が存在する。従来からの「宮」は「天皇の居住する地域であり、政務を司る場所である」と言う特徴と共に天皇一代限りで打ち捨てられていた。もちろん完全に取り壊された場合も有ろうし、難波宮や岡本宮のように後に使用されるケースもあるが、一代限りで場所が変わると言う特徴に変わりは無かった。しかし、藤原京以降は手狭になったり人心の一新等の理由がない限り、天皇の崩御で宮が移される事は無くなった。そう言う意味で藤原京は画期と考えても良いのではなかろうか。

なお、その藤原京も手狭になった事により、平城京に取って変わられる事になる。


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・大宝律令

大宝律令は、701年(大宝元年)に完成したのでこのように呼ばれている。わが国最古の律令と行ってよいだろう。近江令や飛鳥浄御原令のように「令」だけは先行して編纂が完成していたが、「律」と「令」がそろったのは、この大宝律令からである。この律令に基づき統治されたので、この時代の古代国家を律令国家ともいう。しかしながら、法律・法令はそろったが、「格」と「式」と言う統治に必要な規則の編纂は後代に託した。式まで完備するのは「延喜式」を待たねばなら無い。この、「延喜式」の完成により「律」「令」「格」「式」がそろう事になる。

畿内の有力豪族は、壬申の乱から後徐々に官僚として再編されていった。この再編を可能としたのは、壬申の乱の勝利と壬申の乱による有力貴族の疲弊であろう。この時点で、強大な権力と権威を掌握した天皇家が、前代からの流である中国の政治制度の導入を図る。その総仕上げが、大宝律令の編纂であった。この編纂の過程で中国の律令制度に通じた者たちが台頭してくる。天武王朝で冷や飯を食わされていた藤原不比等なども、その一人である。ほぼ中央豪族は律令の編纂完了の頃には、官僚への再編が終わっていたと考えている。

地方に於いても律令とは無縁では無い。中央から天皇の名代として中央貴族が国司として派遣され、国司の下に地方豪族は郡司として再編されていった。そして国・郡・里という区分けによる統治に組み込まれた。しかしながら、中央による強大な武力を背景とした搾取という面はない。国司や郡司の職掌は、そのように定められて居ないからである。どちらかいうと、徳治や農業の奨励に重きが置かれていたといえる。もちろん、生産性が低い時代であるから、税を取られる民衆側には搾取と変わらなかったかもしれない。だが、税を取る田畑の質を分類し、劣悪な田畑からの調整が良田と同じであった訳ではなく、それなりの考慮はされていた。(不正が無いわけでは無い)

律令による統治下の地方の状況に付いては、別途項を改めるとして、律令の制定は明文化された法律による統治を進める事になった。律令制定以前はどちらかというと口頭による事務の連絡・指示が主流であったが、制度が整備されるに従い、文書による統治必須になた。七世紀後半から八世紀前半にかけての木簡が、それ以前の時代より突然出土数が多くなるのはこのためである。文書至上主義は、この頃始まったともいえるかもしれない。


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・平城京の建設

藤原京が「周礼」に基づいて構築された京で有る事は、前々回の項で記述した。これは、天智天皇八年(669)から大宝二年(702)まで遣唐使を派遣する事が出来ず、情報不足に起因すると考えられている。平城宮は、大宝律令と大宝四年に帰国した遣唐使の情報によって建設されたと考えられている。どういう事かと言うと、大宝律令に付いて言えば大宝律令に於ける行政の整備に「藤原京」の改修ではどうしようもなくなったと言うこと。手狭になったと言うことだ。行政の整備は人員の増加を伴い、それらの人員が業務をこなす為の施設や生活する住居が必要になる。

現代でも首都東京の官公庁付近に居住スペースを求めるのは難しい。その為、そこから離れた場所に居住スペースが存在している。酷い場合には、1時間半や2時間の通勤などはざらだ。「藤原京」当時でも同じような事は有っただろうが、通勤する手段が徒歩なので距離は知れている。

そのようなスペースを宮の近くに求めなければなら無いとなれば、大幅な改修が必要になって来るだろうし、京域も拡張せねばなら無い。しかし、「藤原京」は大和三山(畝備山、耳成山、香具山)と甘橿丘に囲まれた領域に存在するので拡張もままならない。

次に遣唐使の情報であるが、大陸の都城は宮室が北域にあり、「藤原京」とは大幅に異なる。北域に宮室が存在する都城は、春秋戦国時代以降の都城では常識なので、「藤原京」のあり方が異質である。先進国家「唐」のあり方を吸収する事が、国家整備にとって全ての面に於いて必要とされた当時、この異質さは大問題となったことだろうと想像できる。

その結果、「京」を造りなおさなければなら無いと云う意識になったことであろう。だが、現存する「京」を造り直す事は不可能だ。行政の停滞を招くし、費用もバカになら無い。(今でも、同一の場所に社屋を建設する場合と新規の場所に建設する場合とでは、土地の価格が同じであれば、引越し費用と設備の仮説分を考慮すれば、新規の場所に建設する場合の方が安く付く)結果、近場で適地を選定し新規に「京」を造りなおす事になったと思われる。

近年では、もう一つのファクターが付け加えられている。それは、「衛生」である。都市の環境問題は、人が住む限り昔も今も変わらない。慶雲三年(706年)三月十四日の「また、聞くには、京城の内外に穢嗅が多く有り。所司が検察をし無い事による。今より以後、両省五府並びに官人及び衛士を遣わして、捉?を加え、事に随って科を決せよ。もし、罪を与えるので無ければ、書状に記録し上聞せよ。」というのは、「藤原京」のトイレが側溝より水を引き込み、その用水の上に構築されていたとの遺構が発掘された事から考えれば、頷けるものだ。

続日本紀では唐突に遷都の詔が出されているが、遷都の必然性が有ったのである。


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