縄文・弥生
日本はほぼ旧石器時代から始まったと言われている。縄文時代は新石器時代に該当し、それ以前の時代は戦前無かったと考えられていた。しかし、遺跡等の発見により旧石器時代から始まった事は定説となっている。
INDEX
・縄文より前(2002/11/05)
・縄文時代1(2002/11/20)
・縄文時代2(未完)
・弥生時代1(2002/11/20)
・弥生時代2(2002/12/11)
・縄文より前(旧石器時代)
旧石器時代は前期・中期・後期に分類される。現在、定説となっているのは遺跡等の年代確認が出来た後期旧石器時代である。中期旧石器時代に付いては捏造事件の影響で現在は保留状態となっている。
現在の日本列島は数100万年前の地殻変動で骨格が形成されたと言われている。約2万年前までの氷期に大陸とつながっていた事により、さまざまな動物及び人類が日本列島に移動してきたと考えられている。3万年前から2万年前ぐらいの間に相当数の人類が獲物を追いかけて日本列島に来たと考えられている。この人々によって旧石器時代が日本列島において形成されてと考えられている。
さて、後期旧石器時代は約3万年前から1万年前間でと考えられており、その終盤から縄文時代がはじまると考えられている。旧石器時代後期は1万5千年前までのナイフ型石器の段階と1万5千年前から1万3千年前までの細石刃型石器の段階に分けられる。その後期旧石器時代前期は初期と後期があり(目安は2万5千年前に噴出した姶良Tn火山灰層)初期においては、石刃技法(石の剥片に対して打撃を与え刃を付ける技法)の祖形である剥片剥離技法(材料の石に打撃を与え剥ぎ取る技法)が使われている。特徴は形を整える事の無い剥片を元にして石器を作成しているところである。後期には石核調整技術(石材を打撃を与えながら整形し、石器の材料の核となる部分を作成する技法)が発達し規格性のある石器が作られている。この石刃を斜めに切断し調整したのがナイフ型石器と言われている。
細石刃型石器であるが、これは石刃を細かく打ち削ることにより刃の調整が行われている石器で約2万年前ぐらいから出現し始めている。ただ、伝播がサハリン経由と朝鮮半島経由があり、北海道経由の技法は東北地方や北陸地方に分布し、太平洋側の遺跡は少ない。その後関東以西に広まっていく。朝鮮半島経由の技法は主に西北九州が中心となる。朝鮮半島経由の伝播は大体1万3千年位前である。この段階で最古の土器が登場し、縄文時代にいたる。
細石刃型石器は縄文草創期には北海道と九州以外では消滅してしまう。
(参考文献 日本時代史1掲載 日本の旧石器文化:佐川正敏著)
・姶良Tn火山灰層
鹿児島県姶良郡にある姶良火山が約2万5千年前ごろ噴火の再に噴出した火山灰により出来た火山灰層。その降灰範囲は九州から関東にかけての広範な地域に渡っている。このため、発掘調査では基準年代とされるケースが多い。
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縄文時代1(新石器時代)
縄文時代は旧石器時代の終了と伴に開始し弥生時代の開始と伴に終了する。大体1万3千年前から2千5百年前までの期間である。ただし、開始と終了の時期は現在なお流動的である。(年代確定が難しい為である)その中で、土器の形式等を勘案して縄文時代事態を細分化しているのであるが、学会では統一見解が為されていない。前・中・後・晩期についてはほぼ統一されているが、それ以前については見解が分かれている。草創期と早期について混乱がある。最近では全体を3期に分ける考え方が出てきている。模索期(1万3千年前〜1万年前)・実験期(1万年前〜6300年前)・安定期(6300年前〜2500年前)が提案されている(泉拓良が1999年提案)。
泉拓良氏は人口を増やすことを定住の目的にあげているが、気候の変化により植生が変化し移動する必要がなくなった(食料に不自由しなくなった)と私は考える。
次に各分類ごとの特徴を纏めておく。(遺跡は参考で全てではない)
・模索期は土器の出現や竪穴式住居の出現などであり、約3000年間にわたって緩慢に進行している。集落と言える密集した住居群は無い。
[遺跡]・・・粥見井尻遺跡(三重県) 日本最古の土偶が出土・4棟の住居跡あり
掃除山遺跡(鹿児島県) 2棟の住居跡
栫ノ原遺跡(鹿児島県)
[食]・・・・オノグルミ・ドングリ・ハシバミ等の木の実、サケ等の魚介類
[土器]・・・隆帯文土器など
(口縁部と胴体部に粘土紐が施されている)
・実験期は急激な変化が訪れ、集落と言える多数の住居群が出現する。約4000年の期間の割には、土器の時間的・地域的な変化が少ない。関東にも集落が増加、後半には東北や北海道に波及。
[遺跡]・・・上野原遺跡(鹿児島県) 46棟の竪穴住居跡
集落と水場とを結ぶ道路跡
加栗山遺跡(鹿児島県) 16棟の竪穴式住居跡
[食]・・・・カヤ・シイ・クリ・クルミ等
[土器]・・・石坂式土器、吉田式土器、前平式土器など
(丸い筒形が特徴)
(参考文献 日本時代史1掲載 縄文文化論:泉拓良著
集英社版日本の歴史1 日本史誕生:佐々木高明著
小学館 体系日本の歴史1 日本人の誕生:佐原 眞著)
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縄文時代2(新石器時代)
安定期は未だ資料収集中により明確な整理が出来ていません。
・安定期は良く知られている縄文文化が繁栄した時期で、全国的に定住集落が中心的存在となる。生活の安定と縄文文化の成熟が起こるが、後氷期後の温暖化のピーク過ぎる中期以降から人口増加の停滞や減少が始まる。この安定期が従来の前・中・後・晩期を含む期間である。この時期、鬼界カルデラの噴火により西日本は人口希薄である。
・前期(6000年前〜5000年前)
[遺跡]
[食]
[土器]
・中期(5000年前〜4000年前)
[遺跡]三内丸山遺跡(5500年前頃から4000年前)
[食]クリ、ヒエ、マダイ、ブリ、ヒラメ等
[土器]円筒形土器
・後期(4000年前〜3000年前)
[遺跡]
[食]
[土器]
・晩期(3000年前〜2500年前)
[遺跡]菜畑遺跡
[食]米
[土器]突帯文土器
(参考文献 日本時代史1掲載 縄文文化論:泉拓良著
集英社版日本の歴史1 日本史誕生:佐々木高明著
小学館 体系日本の歴史1 日本人の誕生:佐原 眞著)
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弥生時代1
一般に言われている弥生時代の定義は「農耕社会」と「政治勢力の形成」であるが近年の考古学の研究成果により怪しくなっている。以前は「農耕」は弥生時代からと考えられていたが、縄文時代の遺跡より「水田」が発見されるに及んで弥生時代の定義足りえなくなっている。また、「政治勢力の形成」もそのような動きとは無縁の文化、いわゆる縄文の延長と考えられる社会にを形成していた地域も有ることから必ずしも定義足りえなくなっている。
さて、弥生文化を論じる前に西日本(九州北部)を中心に弥生文化が発達していくことが可能であった理由を考えてみたい。弥生稲作が大陸又は半島系の移民により伝播されたのは周知の事実であるが、彼らが縄文に埋没することなく縄文文化の影響を受けつつ弥生文化を構成できたのは、居住敵地の人口密度が希薄であったためであろうと考えられる。このため独自の文化を埋没する事無く構成できたのであろう。人口密度が希薄であった理由は縄文前期に噴火した鬼界カルデラの影響と縄文後期の寒冷化ではないかと考える。鬼界カルデラの噴火により発生した火砕流は、九州中南部(発生地点から100K先まで到達した)に壊滅的な打撃を与え、その降灰により西日本一体の食物に打撃を与えている。それなりの期間があれば復興するのであるが、寒冷化により再び人口が激減し待ったと考えられる。
次に縄文時代は貧富の差や争いが無いと言う話を聞くが、彼らが主体的にそうしたわけでなく、当時の人口密度と生産性の低さがそのような状況に至らしめたと考えたほうが良さそうである。貧富の差は十分な生産量が有って初めて可能のであり、縄文時代の生産量は人口増加のスピードを追い越すことは無かった。これは、気候の変化により人口が激減していることからも伺える。また、コロニーとコロニーの位置が近ければ発生するが、縄文時代のように日本列島内に居住している人口が少ない場合、そのように他のコロニーの近くにコロニーを築く必要は無いのである。このように彼らは結果的に争えない環境かつ貧富の差を築けない環境であった。彼らが平等でかつ平和的で有るかのような幻想は抱かないほうが良いと思われる。
(参考文献 日本時代史1掲載 縄文文化論:泉拓良著
集英社版日本の歴史1 日本史誕生:佐々木高明著
小学館 体系日本の歴史1 日本人の誕生:佐原 眞著)
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・弥生時代2
弥生時代は以前言われていたように「農耕社会」及び「政治勢力の形成」と言う定義は当てはまらなくなったと言うことは前項で書いた。ではどのような定義が当てはまるのだろうか。元々、明治一七年東京都文京区の向ケ岡弥生町で発見された土器にちなんで付けられた時代命名なので、土器の特徴の定義が時代の定義と言ってしまっても良いのかもしれない。しかし、それではその時代の特徴が見えてこない。まして、近年の研究で縄文式土器を母体とし朝鮮の無紋時の影響を受け漸進的に変化してきたとすればなおさらである。また、日本列島の全てが同一の弥生文化と言える状況では無かったのであるから、大雑把にしても分類する必要があると考える。そこで、「政治勢力の形成」を行った文化(主に西日本)とそうで無い分化(主に東日本)とに分類しようと思う。
「政治勢力を形成」させた弥生文化であるが、この分化は朝鮮半島の影響を色濃く受けている。鉄器や環濠集落や首長墳墓の出現である。何れも縄文時代には無かった物である。これらは、大陸よりもたらされたと言って良いであろう。弥生早期は中国では既に戦国時代に突入している。つまり、大陸より渡来した移民がそれらをもたらし、現地在住の縄文文化を持つ人々と第1の文化的人種的融合を果たしたと考えられる。
さて、何ゆえに「政治勢力が形成」されたのかであるが(ここからは私の仮説)、縄文末期の西日本は人口が希薄とは言え、狩猟採取農耕に適した土地には縄文人が住んでいるのである。その適した土地を後から渡来した人々が、簡単に手に出来るわけではない。列島在住の縄文人ならば、他の土地へ移動しようと言うことになるのだが、新たに渡来した人々は、渡来すると言うことに体力を使い果たしているわけである。特に大陸から半島を経由しないで直接渡来した人々は、そうであろうと思う。つまり、開拓する余裕や再度移動する余裕が無いわけである。ここで、縄文人の土地を奪うことが起こる。次に、渡来した人々が一時期及び一箇所に渡来したわけではないと考えられるので、当然の事ながら、渡来人同士の勢力争いが起こったのではないだろうか。この結果、自分たちの安全を守るための必要から、「政治勢力の形成が」行われたのではないかと考える。
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