古墳時代
古代を代表する古墳。その時代に焦点を当てて見たい。
INDEX
・古墳(2003/01/02)
・古墳の年代 (2003/03/18)
・漢字の伝来(2003/01/03)
・五世紀の倭(2003/01/21)
・対外的な武(2003/01/28)
・古墳より見る4世紀から5世紀 (2003/02/04)
・雄略天皇1(2003/01/08)
・雄略天皇2(2003/01/15)
・古墳
古墳時代とは大凡3世紀後半から古墳の造営が途絶える7世紀で終焉を迎える。終わりの時期は646年「大化薄葬令」をもって終わりとするのが適当なのだが、開始時期は確定していない。基本的に「前方後円墳」の成立が古墳時代の開始時期とされているが、発掘調査等により年代が遡る様な発見が近年されている。勝山古墳の括れ部から発見された木材の年代が199年プラス4〜12年(203〜211年)に切り出された事が判明してから、3世紀初頭には古墳時代が成立していた可能性が指摘されている。以前は箸墓古墳が最古と言われていたが、それが怪しくなって来ているのである。ただ、古墳はその他の副葬品の年代も加味して判定されるので、必ずしも勝山古墳が3世紀初頭に作られたかどうかは今後の研究を待つ必要が有ると思われる。
ちなみに前方後円墳をもって古墳の開始時期とするのかと言うと、前方後円墳が日本全国に流行ったからである。また、近年、前方後円墳の規格化が見受けられると指摘されている。ほぼ同時代の前方後円墳を全国的視野から見渡すと、サイズ・造りに規格化が見受けられるのである。例えば、中央の古墳サイズを1とすると地方が0.7とかいうサイズ的な比率が見受けられるのである。(もちろん前方後円墳である)この事から、古墳造営のトレンドが一定の規格の元に存在したと考えられる。もちろん、古墳
なお、前方後円墳が古墳時代の開始時期から終了時期まで保たれていたわけではなく、最盛期は大型古墳が出現する4世紀後半から5世紀後半までであり、それ以降は縮小変形の時期を迎える。また、古墳には前方後円墳以外に方墳・円墳・前方後方墳等さまざまなバリエーションが有る。
さて、古墳は外的特徴の変遷もさることながら、内的特徴いわゆる墓室の変遷も重要である。初期の墓室は竪穴式で、板材を用いたものから石材を用いたものに変遷し、横穴式石室に至る。日本の横穴式石室の場合、巨石で天井を作成するのがトレンドだったようである。蘇我大臣馬子の墓と言われている石舞台を思い出して頂ければ良いと思う。余談ながら、以前(私が中学のころ)は石舞台の周辺は無料で見られたのだが、現在は有料のようである。
最後に古墳時代で扱うのは崇神天皇〜武烈天皇までとします。箸墓古墳が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と言われているのが崇神天皇から扱う理由です。武烈天皇までとする理由は、天皇個人の力が最大で有った時期が武烈天皇までと考えるからです。継体天皇からは天皇個人の力より群臣の力が増してきます。それゆえ、一応の区切りとして、武烈天皇までをここで扱うことにします。
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・古墳の年代
古墳の年代はどの様に突き止めるのか、また被葬者はどの様にして判るのか。疑問に思う方も居られるだろう。また、ぴったしの年代や明確な被葬者が発表されないので欲求不満に陥って居る方も居るのではないだろうか。突き止める方法で一番苦労しないのが墓誌が有る場合である。古墳の墓室の中に墓誌が有れば、「誰が何時埋葬されたか」や「どの様な人物であったか」が一発で判る。残念ながら、私はその様な事例を一・二の例を覗いて知らない。もちろん、その例も墓誌が有った訳ではなく、副葬品に明文が刻まれていただけである。そう、有名な稲荷山鉄剣である。しかし、稲荷山鉄剣のような例は行幸で、他の古墳には、その様なものが無い。もしかしたら存在していたのかも知れないが、盗掘に有ったり、書かれた物が木簡であったりして現在には伝わって居ない。ひょっとすると私が知らないだけかもしれない。
隣の韓国などでは、石に刻まれたり墓室の壁面に書かれたりして今日伝わっている場合が有る。では、それ以外の場合はどの様にして年代や被葬者を推定するのだろうか。(確定は上記のように明確なものが無いので出来ない)たいていの場合は副葬品と他の古墳との形状比較や制作方法比較などで行われる。副葬品の中で一番新しい物が、遡れる古墳年代の上限を示す。それ以前に存在しないものなので、その様に成るわけである。では、下限はどの様にするのだろうか。これは、他の古墳との比較で行われる。古墳の形状も変遷が有って、その変遷の比較により行われるわけである。もちろん、比較する古墳の上限が大凡の下限と成る。
比較するものが多ければ多いほど、年代が絞れてくるわけである。しかし、それでも30年とか40年とかの範囲でとなる。もちろん、科学的な調査により判定もされるが、それは悪まで参考なのである。年代年輪方や炭素C14により、年代を特定しようとしても、それらがすぐに古墳作成に使われたかどうかが判らない。すぐに使われたのであれば、それなりに絞れるのだが、それでも30年〜40年の範囲はいた仕方が無い。ここでもやはり、副葬品や他の古墳との比較で判定される。現在、副葬品の中では土器が使用されるが、土器だけではなく装飾品等も使って判定されるわけである。ただ、土器の年代観についても統一見解が出されているわけではないので、色々な意見が出てくる。なんせ、文書が存在している7世紀ですら統一されて無いのである。それ以前の年代に至っては、なかなか難しいのだろう。
さて、被葬者はどうなのだろうか。これも、あやふやである。もちろん、天皇陵とて同じである。現在は恐らく延期式に書かれた物を参考に陵墓指定を行っているのだろうが、戦乱等により判らなくなってしまっている陵墓が有ると思う。(考古学の年代ではありえない被葬者になっている場合が有る)特に古墳群に成るとこの辺が非常に怪しくなる。大体は、古墳の年代が確定し、その年代にその辺りで力を持っていた人物が葬られていると推定される場合が多いようである。もちろん、天皇陵は別格であるが、だから余計にややこしくなるのであろう。特に陵墓指定を受けた場合は、発掘すら出来ないから、余計に「誰なのか」を確定するのは難しい。しかし、陵墓の発掘は日本人が天皇陛下を必要としなくなるまで、無理だろう。(ほぼ永遠に不可能のような気がする)
考古学者や歴史学者は文句を言うかもしれないが、歴史を学ぶ方は歴史から「教訓」や「伝統」を学ぶのであり、取り合えず「日本書紀」や「古事記」を正統としてもらっても構わないと思うのだが。もちろん、新しい事が判れば修正して行けば良いだけの事であると思う。(左右両方から責められそうな気がする)端から「平和教育が目的なのである」というイデオロギーで研究されては欲しくないが。「日本書紀」や「古事記」が絶対正しいと言う固定的な研究も同じでは有るが。
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・漢字の伝来
漢字は何時、日本に来たのであろうか?記録上に存在しているのは「古事記」の応神天皇記に記載が有る。ただし、この記載が日本書紀と時期的に異なるので注意が必要である。古事記は照古王(近肖古王)の時期と書かれているが、日本書紀に該当する記述は阿花(アカ)王の時代に相当する。しかし、私はもっと以前に漢字は伝来したと推測している。ただ、範囲はかなり限られていたとは思うが。
最初に伝わった時期は前漢の時期ではないかと考える。中国との接触が始まったこの時期に外交文書として漢字が必要になっていたと推測できる。中国は既に文字の分化に突入して数世紀を経ており、行政などにおいては文書を使用していた。ただし、この当時、記録紙としての紙は存在せず(蔡倫が105年ごろ製紙法を改良してから)、竹簡や絹に書かれていた。どちらにしても当時の日本(倭)では高価なものであり、おいそれと使用する事は無かったであろう。日本において行政事務に文書が使われるようになるのは、もっと後の事である。であるから、一般的(役人の間と思って下さい)では無いにしても、その立場にいた人々は読むことが出来たと考える。(読むのと書くのは別)
また、57年に後漢から金印をもらった時点では、確実に漢字を使用していたと考える。外交文書が必要だからである。誰かに書いてもらうにせよ、書いた文書を信頼できるものが確認出来なければ、外交文書として提出できない。また、1人の人間に全ての事を任せるのは危険であるのは、今も昔も変わらないのであるから複数人漢字を扱える人々が存在したと考えている。
なお、「外交文書だけではない」と言う説も有る。考古学者の森浩一氏は鏡の裏に書かれている漢字を当時の人々は「模様」としてではなく「文字」として認識していただろうと推定されている。日本で作られた鏡(平原・三雲等の弥生時代の古墓から出土する大型鏡)に存在している漢字から、そう判断されている。
余談では有るが、大型の銅鏡は日本独特の鏡である。最盛期には46センチもの大きさの鏡が作られている。また、鏡を埋葬時に装飾品として埋設するのも日本独特である。(一部越南や朝鮮沿岸部にもあるが)前述の森氏によれば、八咫鏡はこの時代の鏡ではないかと推測されている。これに付いては別の機会に検討しようと考えている。
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・五世紀の倭
五世紀は中国の史書に現れる「倭の五王」の時代で有る。そして、朝鮮半島の歴史書で有る「三国史記」には頻繁に倭が侵攻した記載が記述されている。先ず「倭の五王」で有るが、中国の史書に「倭の五王」と言う分類があるわけでは無い。そこで先ず倭の五王で有るが「讃・珍・斉・興・武」である。どのような基準で自分達の事を中国式に命名したのかは、現在伝わっている名称からは判別が付かない。しかし、このうち、「讃・珍」が一つのグループで「斉・興・武」がもう一つのグループと成っている。このグループ間の続き柄は残念ながら、中国の史書からは判らない。「斉・興・武」に付いては系図から記紀の允恭天皇・安康天皇・雄略天皇に比定されている。「讃・珍」に付いては諸説ある。
それぞれの王は下記の様に
・讃 永初二年(421年)元嘉二年(425年)
官職を授けられる。官職名は不明。
・珍 元嘉十五年(438年)
使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を自称し、その使用を許される。また、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍等に任命するよう求め許されている。
・斉 元嘉二十年(443年)元嘉二十八年(451年)
安東将軍・倭国王に任じられる。(443)
安東将軍に追加して使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の称号を与えられる。また、一緒に入朝した23人を軍郡に任官した。(451年)
・興 大明六年(462年)
安東将軍・倭国王に任じられる
・武 昇明二年(478年)
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任じられる。
宋に朝貢している。そこで王号および将軍号を宋より授けられ、また、属僚にも官職を授けてもらうことにより、「王府を中心とした秩序の成立をなそうとしている。」とも考えられる。臣・連に別けられる各種の官職はまだこの時期には無いと言われている事から、この叙任は秩序形成に大いに役立ったであろう事は十分考えられる。
さて、「武」の朝貢が最後と成る。この後、日本国王に足利氏が任命されるまで、中国から授けられること無くなる。そして、日本独自(中国の権威から切り離されたと言う意味で)の秩序形成を行っていく事に成る。ただ、倭王興以降に王以外の任官の記載が無いことから、この時点では国内の王権は宋の威光が必要と言う条件付きながら、確立しても良いのでは無いかと考える。ただし、それでも西日本が完全にその権威に伏すのは継体天皇の磐井の叛乱を鎮圧するまで待たねば成らない。
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・対外的な武
どこまでが正確化は検討の余地があるが、当時の日本は朝鮮半島へ都度都度武力侵攻している。この事は「三国史記」に度々「倭が侵した」と言う記述が有ることや等から想像できる。中でも、石上神社に有る「七支刀」や中国東北部にある「広開土王碑」などにより、3世紀後半から四世紀前半にそれなりの大軍(広開土王碑には5万)を投入できるだけの国力を持っていたと考えられる。「三国史記」に記載されているような状況が存在していたと言う事は、少なくとも朝鮮半島南部に拠点を確保していたと考えられる。
日本の領土と言ってしまうのは大げさで有るが、前進基地としての任那日本府が存在していた事はこの資料から読み取れる。規模はそんなに大きく無いであろう。当時の兵は生産の担い手であり、大軍を編成すると言う事は「生産量」に取っては二重のマイナスなのである。たとえば、一人の人間が収穫する分を全部食べたとする。この場合、一人が生産しなければ「生産量」は一人分減り、その人間が食べる事によりもう一人分減るのである。
三世紀の時点で、対呉・対東北地区政策を展開していた魏が注目するほどの国力が存在していたので有るから、あながち無理なわけではなかったであろう。しかし、恒常的に万余の軍を貼り付けるのは無理だろうから、「広開土王碑」が示す事態が発生し動員したのでは無いかと思う。(食べるだけの人間を恒常的に5万も養うのはかなり難しい。)
誤解の無い様に記述しておくが、私はこれにより朝鮮半島がわが国より送れていたとは考えていない。文明的には朝鮮半島の方が当時の日本より、高いレベルに有ったであろうと考えている。これは、中国と絶えず接触できる位置関係が有利に働いている。しかし、文明のレベルが高くても生産力が高いわけでは無い。それは、日本と朝鮮半島の気候の違いによる。気候的には朝鮮半島の方が日本より厳しい。この結果、農業生産力は日本の方が高かったであろう。つまり、大群を動員できるだけの人口問題の解決が可能であり、余剰物資を使用しての交易による、武器の調達も可能では無いかと思う。
もう一つは、この時期に軍を動員できるだけの統治が行われていたと考えられる。内戦の場合なら一国(当時の)程度の統合で住むが、外征を行う場合は兵の動員、武器食料、運搬手段の確保を行わねば成らず、それなりの統治システム(統治権力)が存在していたと考える。ただ、それが合議制(連合政権)で有ったのか、王単独による統治かは検討の余地が有ると考える。
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・古墳より見る4世紀から5世紀
4世紀末と5世紀初めでは古墳の築造地域に断絶がある。これは畿内(大和河内)の話ではなく地方の話になるが、山城を始め九州・東北でもこの様な断絶が起こっている。大きな意味で山城は畿内に含めて良いのかもしれないが、実質的な政治の中心はこの時代大和・河内がその舞台であると考えたほうが良い。この事から考えられるのは、4世紀までの中央権力は安定的に地方にその力を及ぼせて無い様であるとの意見がある。断絶がどう言うことかと言うと、1〜2世代に渡って古墳が造営されるが、3世代4世代と後が続かないのである。例として上っているのは福島の大塚山古墳、福岡の石塚山古墳、大分の赤塚古墳などである。これらは外的要因により古墳が築かれ内的高まりで築かれたわけではないと結論されている。
4世紀の畿内王権が後世の律令体制のような官僚制を持っていなかったためと、畿内王権が脆弱だったためと考えて良いと思う。脆弱で有りながら、朝鮮半島への出兵を行えたのであるから、それなりの力は発揮していただろう。しかし、外征と内政の両方に十分に力を配分出来なかったようである。これは古墳時代初頭から4世紀末まで王権の整備が十分でなかった傍証であると思う。
ところが、5世紀に入ると異なってくる。同一地域に3世代4世代に渡って古墳が作られる。これらは地方豪族の権力基盤(軍事力・経済力)が安定して来た事と畿内王権の影響力が安定して来た事が理由であると考えられる。地方豪族と畿内王権の関係も安定していると言うことである。
そして、この時代大型の前方後円墳が全国で全盛時代を迎える。このことも上記の安定性の傍証になると思う。つまり、大型の古墳は在地豪族の権力基盤が安定していないと作れない。造作のための動員を行いながら食糧生産を行うには、それなりの軍事経済基盤が無いと不可能だからである。また、畿内と同系統の古墳を造作使用と思えば、畿内王権との関わりが安定していなければならない。そうしなければ技術者等の畿内からの派遣または地方からの派遣による技術の習得が出来ない。
こういった大型古墳を作るための経済力(食糧生産力)は恐らく大規模な開墾や灌漑の工事をこの時期に行ったのではないかと考えられる。また、鉄器の農具への普及や農具の改良により生産が上った事もこれらを可能としている。
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・雄略天皇1
天下の人々に「大変悪い天皇である」と誹られたのは、雄略天皇が最初であろう。記紀の上で暴虐な天皇として描かれたのは武烈天皇だが(武烈天皇に付いては別途項を改める)天智天皇と並んで血なまぐささの漂う書き方をされている。ただ、この3天皇とも私は英明で有ったと思っている。専制君主は英明でなければ、その力を発揮することが出来ないのである。暗愚で有っては専制君主(暴君)になれない。隣の中国で歴史上暴君として上げられるのは、夏の桀王・殷の紂王であるがどうも暴君ではなかったらしい。何れの君主もその国の最後の王であるが、それぞれ数百年続いてきた王朝が末期に入りがたが来ているときに登場している。暗愚であれば、すぐに王朝の交代になっただろうが、そうでないが為に改革を行い、人々が離反し結果的に王朝の終焉を迎える。それと同時に次の王朝の初代の王が英明であったと言うのも両王にとって不幸であったろう。
さて、雄略天皇である。雄略天皇は允恭天皇の第5子である。安康天皇が弑逆されたのを受けて、並み居る競争相手を倒し即位している。「天皇は自分の心だけで専決されることがあり、誤って人を頃されることも多かった」のくだりに続くのが最初に書いた「大変悪い天皇である」と言うものである。私が思うのは「専決」や気性の激しさが嫌われたのであろう。ところが、別の所に「天皇は大変徳のある方」(一事主の神との狩)「都・田舎の人みな喜び仰いだのは天皇の力である」(顕宗天皇2年3月条)とある。潤色が有るのかもしれないが、間違うことも有ったが概ね良い天皇であったのであろうと思う。
近い昔で言えば、織田信長のような気性の天皇であったのであろう。渡来系の人々を重用し官僚制の整備に手を付け、後の世の礎を築いた天皇と言えるかもしれない。織田信長のように道半ばにして殺害されなかったのは、その力が強大で有ったのであろう。少し時代が下れば、臣下に弑逆されるのである。嫌われながらも、有無を言わせぬ能力と力を発揮できた最後の天皇と言えるかもしれない。
少し外れるが、考古学の世界には7・5・3論争と言うのがある。国家と呼べるのは何時の頃からか、というテーマである。7は7世紀の律令の時代。5は5世紀で応神〜武烈天皇の時代または倭の5王の時代。3世紀は崇神天皇の時代、卑弥呼の時代でもある。この論争はまだ決着していない。
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・雄略天皇2
実在に疑問のもたれていた天皇なのであるが、稲荷山古墳出土の鉄剣の金文にその名前が記載されていた事により、実在性が高まった。「獲加多支鹵大王」の文である。それにより江田船山古墳出土の鉄剣に象嵌されていた大王名称の「獲□□□鹵」の不明部分(□□□)も解読されたのである。また、稲荷山の鉄剣により雄略天皇当時すでに東北の南部(関東の北部)が倭王権の勢力範囲であった事、及び初期官僚制である「人制」が当時実施されていた事が分かったのである。
ただし、注意せねばならないのは、この当時の王権は後の律令王権と異なり、天皇自身の力が非常に強い時代であったと明記しておかなければならない。つまり、律令期の王権とこの時期の王権は異なるのである。確かにどちらの王権も強大である。しかし、律令期の王権は天皇個人の力と言うよりも組織としての力であり、より専制的な力を発揮している。そして、この時代に初期官僚制が出来たと言えども、後の世の律令官僚制とその権限や発揮できる力は異なっていると理解しておかなければならない。
また、この時期は渡来人が政治の場に登場する機会を作った時期である。史氏等の「値」を姓にもつ種族や秦氏などがそうである。それ以前は、各豪族の配下に属していた渡来系種族が王権のもとに集約していく切っ掛けを作ったと考えられる。もちろん、各種族がそれぞれ統合されていくのは雄略天皇より後の時代であるが、そういった統合に始めて踏み込んだ大王とも見る事が出来ると思う。
そう言う意味では「初期を編纂した時代の官人達は、雄略期を画期と考えていた」と論考される方が居られるが頷ける。崇神天皇から王権を成長させて来た一つのピークの時期ではあると思う。もしかすると天皇個人の及ぼせる政治力が最高潮に達した時代なのかもしれない。古墳の造営は確かに強力な力が必要だが、組織をいじるためにはそれ以上の力が必要である。
しかしながら、巨大古墳造営を行った王権の存在意義を低下させるものではない。(応神・仁徳陵の被葬者が両天皇でないとしてもである)巨大古墳造営が出来るほどの力を蓄えた結果、その後、それを上回る力の出現を招くことが出来たと考えている。また、同様に河内地域において渡来系氏族の実力の蓄積が雄略期に政治の場への登場を促したと考えられる。(5世紀の河内周辺は渡来系氏族を指し示す出土物が多い)
民族が死に絶えない限り歴史の断絶は無く、何がしかの継承が行われる事を考えれば、興味の尽きない時代である。
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