[トップページ]>[歴史のページ]>[先代旧事本紀 巻第六]
天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
[亦は天饒石国饒石尊(あめにぎしくににぎしのみこと)
と云う。亦は天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と云う。]
天祖(あめのみおや)は詔をし、天璽鏡剣を授けて諸神を陪へ従えた事は天神本紀に書かれている。
高皇産霊尊は眞床追衾で皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆い、陪従(みとも)に先駆けさせて、
天磐座(あめのいわくら)を離れて、天の八重雲を押し開いて威勢良く道を踏み分けて天降られた。先駆けの神が還って来て
「一人の神が、天の八達之衢(やちまた=交差点)にいます。上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしています。
その鼻は長さが十咫(とあた)で、背の高さは七尺あまり。七尋と言えます。また、口の橋が光っていて、目は八咫鏡のようです。
その赤い事は赤酸漿のようです。」
と報告した。すぐに従っている神を派遣して何者か問わせようとしたが、八十萬の神たちは、皆、眼光の鋭さに押され問う事が出来なかった。
女神では有るけれども天鈿賣(あめのうずめ)に
「汝は人に勝れる神である。往きて問え」
と命じられた。天鈿賣命は胸を露にし、裳の帯を臍の下まで下げて、あざ笑いながら向かって立ち、衢に立つ神が天鈿賣は
「汝はなぜ、このような事をする。」
と問うた。天鈿賣は
「天神の子が通られる道に、この様に居るのは誰だ。」
と敢えて問うた。衢の神は
「天照大神の子が今降りてこられるので、迎え奉るために待っているのだ。私の名前は猿田彦大神である。」
と答えた。天鈿賣は再び
「汝は私に先立って行くか、それとも私が汝に先だって行くか。」
と問うた。猿田彦大神は
「私が先に行く」
と答えた。天鈿賣はまた
「汝は何処に行こうとしているのか。皇孫は何処へ行けば良いのか」
と問うた。猿田彦大神は
「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くしふるのみね)に行かれる。
私は、伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上に行く。」
と答えた、また
「私を顕したのは汝である。だから、汝は私を送って行かなければならない」
と言った。天鈿賣命は戻って報告した。皇孫は天鈿賣命に
「この御前に仕える猿田彦大神を顕したのは汝である。汝が送って行きなさい。また、その上の名前を汝が負って仕えなさい。」
と命ぜられた。猿女君等は猿田彦の神の名を負って、女を猿女君と呼ぶのはこのことである。猿田彦の神が阿邪河(あざかわ)に居るとき、
漁をして比良夫貝に手を挟まれ海に沈んだ。その底に沈んだ時の名は底度久御魂(そことくみたま)と云う。
その海の泡立つ時の名は都夫立御魂(つぶたつみたま)と云う。
その泡を裂いた時の名は沫佐久御魂(あわさくみたま)と云う。猿田彦の神を最後まで送って行って還って来て、ことごとく大小の魚を集めて
「お前達は、天神の御子に仕えるか」
と問うた。諸々の魚は皆
「仕えます」
と言ったが、海鼠だけは答えなかった。天鈿賣命は海鼠に
「この口は答えないのか」
と言って、小刀でその口を裂いた。そのため、今でも海鼠の口は裂けているのである。
その御世ごとに有る志摩からの速贄が奉られてた時に猿女君に賜るのはこの事によるのである。
天津彦彦火瓊瓊杵尊は、筑紫の日向の襲の槵觸二上峯(くしふるふたがみのみね)に天下られた。
時に天浮橋より浮洲に立たれて、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を丘伝いに国をまたいで行き去り、
吾田(あた)の笠狭(かささ)の岬に着いた。長屋の竹島に登って、その地を見渡せば、その地に一人の神が居た。
自ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。事勝国勝長狭はイザナギの尊の子供で有る。
亦の名は塩土老翁(しおつちのおじ)と云う。皇孫は
「ここは誰の治める国か」
と問われた。長狭は
「ここは長狭が治める国です。また、長狭が住む国です。良いと思われましたら、ご自由にどうぞ。」
と答えた。皇孫は滞在された。そして、
「この国は、韓国(からくに)に向かっていて、真直ぐな道が笠狭の岬まで続いている。朝日が刺す国であり、夕日が照る国である。」
そして
「この国は良い国で有る」
と言われ、底津石根に太い宮柱を建て、高天原に届くような高さに宮殿を造るよう命じられた。
注)()内はルビを、[]内は原文で小さい文字で書かれていたものです。