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先代旧事本紀巻九 帝皇本紀

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継体天皇1

 諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)である。またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)である。誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)の五世の孫の彦主王(ひこうしのおおきみ)の子である。母は、振媛(ふりひめ)と云う。振媛は活目天皇(いくめのすめらみこと=仁徳天皇)の七世の孫である。天皇の父は振媛の容姿が大変麗しいと聞いて、お生みの国の高嶋郡(たかしまのこおち)の三尾の別荘より使いを遣わして三国の坂名井(さかない)に呼び召して妃とした。そして、天皇を生んだ。天皇が幼い時に父王が薨去され振媛は嘆いて

「私は今、遠く実家より離れて、どうして養っていけるだろうか。高向[高向は越前国の邑の名前]に還って天皇を養う。」

と言った。天皇は壮年になり士を愛し、賢く、心は豊かであった。

小泊瀬天皇八年冬十二月 小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと=武烈天皇)は崩御された。天皇に子供が無く跡継ぎが途絶えた。大伴金村大連(おおとものかねむらのおおむらじ)は諮って

「今、跡継ぎが無く継がれる方がいない。天下の何処に心を寄せれば良いのだろうか。古より今に至るまで、禍はこの様な事から起こる。今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと=仲哀天皇)の五世の孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)が丹波の国の桑田郡(くわたのこおり)におられる。試しに儀仗兵をもうけて御輿を守り迎え奉って欲しい。そして、立てて天皇になってもらおう」

と言った。大臣・大連らは皆賛成した。迎えに奉る計画の通りにした。倭彦王は遥かに迎えの儀仗兵を見て、驚き色を失って、山に隠れた。居られる所は誰も知らなかった。

元年正月四日 大伴金村大連はさらに諮って

「男大迹王の性格は恵み深く孝心が篤い、天皇にふさわしい方と思う。慇懃にお勧めして、帝業を継いで頂こう」

と言った。物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)は許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)等を見て

「子孫を調べて見ると、賢者は男大迹王だけである。」

と言った。

六日 臣・連等を遣わし節を持たせ輿を備えて三国へ迎え奉った。警備の儀仗兵は威儀を正して装いを整え、さきがけの者が御前に至った。男大迹天皇は泰然自若として、御座にお座りになられ、陪臣を整列させ帝の様であった。節を持った使い等は之により、畏まり心を傾け命を委ね忠誠に励もうと思った。しかし、天皇は心の中で尚疑う気持ちが晴れず、すぐには帝位に就かれなかった。偶々、知っている河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、密かに使いを遣わして、大臣・大連等の迎え奉る所の本音を申し上げた。使いは二日三夜留まって出発した。この事を褒めて

「よきかな。馬飼首は。汝がもし使いを遣わして告げていなければ、天下の者に笑われたことだろう。世に言う貴賎を論ずるは、ただ、その心を重きとなす。これは、荒籠の事を言うのだ」

と言われた。践祚されるに及び、篤く寵愛され待遇を良くされた。

二十四日 天皇は樟葉宮(くずはのみや)に行かれた。

二月四日 大伴金村大連は跪いて、天子の鏡・剣を添えて奉って再拝した。男大迹天皇は辞退されて

「民は子であり、国を治める事は重いことである。私は、不才にして適うところが足らない。願わくは知恵をめぐらして、賢者を選ぶ事を請う。私は、それに当たらない」

と言った。大伴大連は地に伏し固く請うたが、男大迹天皇は西を向いて譲られる事、三度。南に向いて譲られること再び。大伴大連等は皆

「伏してこれを考えますに、大王が民を子とし、国を治めるのが最もかなうと判断します。臣等は宗廟社稷の為に考える事は疎かにしません。どうか衆の願いにより天皇の位に付かれる事を願います」

と言った。男大迹天皇は

「大臣・大連・将・相・諸臣が悉く私を推す。あえてこれを受けずや」

と言い、璽を受けられた。そして、この日、天皇位に上られた。皇妃を尊んで皇太夫人媛とした。

注)()内はルビを、[]内は原文で小さい文字で書かれていたものです。

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